使命に生きる人

 宮沢賢治は自然と深くかかわり、人間の忍従を横目でみて嘆くだけの傍観者の立場に安住していられなかった。自分の目で見た現実から心をそらすことはできず、信仰にもとづいてゆるぎない態度で行動するよう人々を導くことが自分の義務だと感じた。そのため、他に理由はなくても、この宗教上の理由だけで、賢治は20世紀の日本の作家のなかで正当に理解されない点では代表格の作家になるという運命を背負ってしまった。
 ところが1996年になって、まるで不公平を是正するかのように、賢治の作品は前代未聞の注目をマスコミから浴びた。新聞や雑誌に彼の記事が載らない日はほとんどなく、ラジオでも彼を賞賛しない日はないほどだった。この年の前半だけでも、彼の生涯と作品についての長時間ドキュメンタリードラマが3本テレビで放映され、映画も2本製作された。さらに、1997年に放映予定のアニメーションも完成されたという。過去、現在のどの作家にも、これほど集中的な注目を浴びた例はない。生誕100年目にして、宮沢賢治は奇跡のごとく現世によみがえり、仏界の六道ならぬ文学界の名誉の六道のうち、中位の迷界から至上の天界へ昇ったのである。
 180度のこの転換をもたらしたものは何だろうか。宮沢賢治は高徳の人、花巻の聖者に祭り上げられたのだろうか。読者は本気で興味を抱き、それが正しくマスコミに反映されたと言えるのだろうか。この大袈裟な賛辞はたして長続きするものだろうか。
 賢治が生きていた時代(1896-1933)、東北地方の岩手県の農民たちは貧困にあえいでいた。日本の発展はつねに地域差を伴ってきた。明治時代(1868-1912)、国家が社会の激変をもたらしながら近代化の体制をかためるにつれて、封建時代に都市として経済的にも発展していた港町に富が集中するようになった。
 その一方で、地方の多くの農村では農民たちが近代化から取り残されていくのを感じていた。従来の社会機構のままでは、農民が効率の良い農業経営を始める準備は必ずしも整わなかった。関東や関西地区は国際港の横浜や神戸の恩恵を受けることができたが、これらの国際港からはるかに遠い岩手では、近代化に遅れないための情報や手段が得られなかった。貧困に苦しむ東北の男は主に東京へ働きに出るため、その玄関にあたる上野にやってくる。娘たちはそこから紡績工場へ、ひどい場合は売春宿へ送られた。本州の北部一帯に広く伝承されているこけし人形は、失ったかわいい娘をしのぶため両親や祖父母が大切にした愛の似姿人形とも言われている。
 宮沢賢治はそのような環境で育った数少ない例外だった。花巻の裕福な家庭(父、政次郎は町の質屋だった)で五人兄弟(男二人、女三)の長男として生まれた賢治は、近隣のみじめな小作人がわずかばかりのお金を得るために乏しい所持品を質に入れるのを目の当たりに見て育った。
 後年、賢治は博識な農業技師としてふたたび近村の農民たちと繋がりを持つようになるが、農民たちが賢治の父親の商売と賢治とをほんとうに切り離して考えていたかどうかは疑わしい。
 長男は当然のこととして父の跡を継がなければならなかった。日本では軍国主義の時代でさえも長男は徴兵を免除された。従順に家業を継ぐことはそれほど重要なことと考えられていた。それを拒絶することは重大な反逆の始まりだった。
 賢治が生まれてから100年たった現在、花巻の気のいい人々は宮沢家のことを褒めているが、当時の宮沢家はどちらかというと嫌われていた。父親の質屋に貧しい農民たちが出入りするのを見て、少年が感じたものは良心の呵責以上のものだったと想像せざるを得ない。賢治自身は農民の運命に心を痛めていることを知らせるには、農民のためになにか役に立つ方法を見つけなければならなかったのだ。