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「緑の大横浜圏を再生する」

▼ 「たそがれる横浜」の捉え直し

・「たそがれる横浜」について第1部の話を聞いていて、とてもおもしろかった。 私は、町田で都市計画の審議会、都市マスタープラン、大規模団地についての委員会などの仕事をしていて、町田市が、今、どういう「たそがれ」の中にいるかを、微に入り細に入りよく知っている。
横浜市は町田市の10倍ぐらい人口がいるので量的に違う面があるが、横浜が抱えている問題は、町田が抱えている問題と全く同じだ。人口の高齢化、産業や土地利用の変化、それらに関連する暮らしの問題、いずれも共通する。さらに、ある種の低地帯と中間帯と丘陵という3つのゾーンになっているところも同様だ。

・「たそがれる横浜」というのは、横浜だけをとりだして考えることができる問題かというと、そうではない。この「たそがれ」は、日本の産業国家としての現状を反映した「たそがれ」でもあるし、近代産業文明が数百年かけてつくってきたスタイルというのが、ついに地球環境問題が象徴するような形で終わるんだという「地球規模のたそがれ」でもある。

・これを「たそがれ」と言うのか、自然と共存する持続可能なシステムをつくる「新しい挑戦」と見るかは、人の心の問題だ。200〜300年とんでもなく異様な暮らしをしてしまった産業文明が、正常な地球と共存する文明に転換するプロセスにいるのだと、僕は思う。そのプロセスを日本の特性において、あるいは、後で言うように、多摩三浦丘陵の特性において受けとめようとしている、という見方をしたい。

▼「横浜開港150年」のテーマ

・「横浜のたそがれ」、横浜の転換を広い時間的、空間的視野で見直すために、あと7年で横浜開港150年になるので、「横浜開港」との関連で位置づけて考えるのがよいのではないか。

・まず、1859年の「横浜開港」とは、いったい何だったのかを考えたい。
横浜があの時期にやったのは、西洋的な暮らし、文化への開港だった。開港のときに、横浜周辺に英語がどんどん入ってきたし、キリスト教がどんどん入ってきた。牛乳、牛肉、アイスクリームが生産されるようなり、ビールも横浜で最初に作られた。 開港後の横浜は政治的にも、非常に強い力をもったが、それを支えたのは絹貿易だ。絹は関東山地、八王子、町田の方から延々とやってきた。養蚕や絹を土台にして、横浜周辺は、自由民権の巣窟であり、のちに自由党の影響力も非常に強いところだった。

・1859年の「横浜開港」はそういう開港だった。では、2009年には、一体どういうテーマで横浜が開港150年を記念するのか。
150年目の横浜開港というのは、人口の問題、産業の問題、土地利用の問題、難しいことがいっぱいあるけれども、そういうものを新しい、みんなが安らいで暮らせるような文化に転換する開港であり、仮に「緑の都市文明」と言うとすると、そういうものに向かって大きな船を出すという捉え方がいいのではないか。

いるかの形の多摩・三浦丘陵
▼ 1859年に、開港したのはどこか?

・反省が必要なのは、「開港したのはどこか」ということだ。我々は開港したのは神奈川県横浜市と勘違いしがちだが、開港したのは埋立地周辺と本牧、あのあたりが外国人居住地となって、1858年ぐらいから本格的に開港した。そういう意味で開港を考えたら、横浜市のほとんどのところは開港と関係がない。

・しかし、見方を変えて、世界の新しい秩序に開いた場所、「開港」によって活性化された場所を広域的に捉えると、現在の横浜市より広い範囲になる。こういう意味での開港横浜には、八王子もさらに西多摩の奥の方も含まれる。そういう視点から、開港したのはどこかを定義し直したい。

・まだ正式に開港していない1858年に、外国人が自由往来区域を要求して、幕府が許可をした。自由往来区域の地図を見ると、多摩川の江戸側は外国人は入れなかった。自由往来区域の一番奥が日野とか八王子、さらに西多摩の奥に入ったところになる。南西側は、大山の裏を通って、小田原まで自由往来してよかった。
この自由往来区域は、2つの領域からなっている。ひとつは、三浦半島から八王子のほうに延びていく、横浜を包んだ多摩三浦丘陵群と言われる、大きな丘陵地だ。もうひとつは、境川から西、相模湖から丹沢の山系にいたる領域だ。横浜と密接な通商をし、物を運び、人が動いたのこのうち前者の丘陵地の方だ。

・桑が栽培され、絹の生産が行われて、絹が動いた道は、横浜を包んだ多摩三浦丘陵群だ。食い残した桑の葉っぱを、乳牛が食べて、肉になり、牛乳になる。そういう活動で金をためた豪農が政治活動をやる。この丘陵台地領域は、そういうことが起こった交流の大きなベルトだった。開港したのは、この緑の大きなベルトを含んだ領域、大横浜圏、グレーターヨコハマであったというのが私の意見だ。

・1893年までは三多摩も全部神奈川県で、町田、今の多摩市、日野、八王子、みな横浜と一体だった。ところが、町田などは豪農でものすごい地主的な政治家がいっぱい出てしまい、それを抑えるために、帝国議会が三多摩を東京に入れ、南多摩、町田あたりも全部南多摩に入れてしまった。そのために、横浜が八王子や町田と日常的につき合うという文化が切れてしまった。

▼ 持続可能な文明への転換と大横浜圏の課題

・では、西洋の産業文明の転換、自然と共存する持続可能な文明に、はっきり言えば都市文明に転換するという大きな課題に、グレーターヨコハマでどう対応できるか。

・横浜は、第1部で内海さんが指摘したように、首都圏近郊の丘陵都市だ。この領域は、西部開拓のような領域で、お金があるときにがんがん丘陵に攻め込んでいて、どんどん住宅にするという動きが続いた。住宅というのは、市街化調整区域を食いつぶしてできてくるのだと、みんな長く思っていた。ところが、これが経済の不振でストップした。
ストップしてしまうと、先ほど江成さんが指摘したように、市街化調整区域の農地では、農業後継者もしっかり確保できない。もしかすると、山林に手を入れなけれ ば大災害のもとになるかもしれない。茫漠とした都市市民にはでか過ぎるほどの緑が残ってしまうという問題にぶつかっている。
都市の緑を持続的に活用しながら、都市と地球を和解させるような新しいシステムを、果たしてここでつくれるのかが問題になっている。

・こうした問題を解いていくために、提案が3つぐらいある。

・一つは、先ほど村橋さんがおっしゃったような、地域文化交流圏(僕の言葉では生態文化地域)の形成だ。丘陵都市の広がりの中で、行政区分なんか無視して、どんどんつながりをつくろう。そこから、高齢化の問題、産業構造の問題、緑の問題、あるいは防災の問題を考えるような、新しい都市の暮らしのあり方を考えていったらどうか。 私自身は、多摩三浦丘陵全体に、イルカ丘陵ネットワークという交流組織と、鶴見川の鶴見流域ネットワーキングのお世話をやっているが、そういうのがあちこちにできればいい。今、横浜では、川のフォーラムというのが、流域ベースでそういう努力をしている。

・もう一つは、公共交通をベースにした、エコツーリズムのようなものを本気で考える。お年寄りが少し電車に乗って楽しめる。それがちゃんとお金も回すし、お金も落とすというシステムをつくることができるだろう。横浜線と京浜急行が本気になれば、この2本で、多摩三浦丘陵群の動脈路になる。

・第3に、茫漠たる市街化調整区域の緑をどうするか。どこでも市民団体がNPOをつくって里山の管理をすればどうにかなるという、誤ったとんでもないイメージがはびこっているが、そんなことはできるわけがない。
僕は町田で、土日はものすごい量の木を切り、ものすごい量の土木作業をやっているが、氷山の一角どころではない。町田の一番奥の300ヘクタールほどの市街化調整区域は、後継者が1人しかいない。そこにどうやってボランティアが取っつくとうのか。根本的に、そういう都市の中の緑の扱い方を考え直さなくてはいけない。

・いろいろアイデアはあるが、僕が今、これにすがろうと思っているのは、お墓だ。お墓というとわりとみんな嫌がるけれども、メモリアルフォレスト方式を考える。100ヘクタールの緑の中に、農地は10ヘクタールしかつくらない。墓碑はいらない。ちょっとあっても、ローテーションで10年たったらみんな木になる。大きな御影石に、10年たった以降の人は名前が彫られる。僕、これで、予約をしてくださいと言えば、10万円とか20万円出す人は殺到するだろうと思う。それを原資にして、行政とか不動産会社がしっかりしたシステムをつくれば、場合によっては墓地があるメモリアルの森の中に、子供たちが遊んだり、七五三をやったり、結婚式をやったりする施設ができる。そこからとんでもない都市の緑農産業が始まるのではないか。
生死観の転換というのは、多分、都市の転換には大課題だ。特に、横浜の都市は、死の問題を避けてつくられた都市が非常に多い。やがて僕ら団塊の世代が大量に死ぬが、その人たちが死ぬときのお金を、都市の緑を再生して、農業を再生して、あるいは緑地を再生するために使えると思う。

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