編集日誌 1996年〜1998年 ご意見ご感想

1998. 12.25 編集日誌 No. 47
    前にも触れたが、賢治の詩のよき理解者で、賢治よりずっと年下だが親交のあった森荘己池(本名は佐一)さんが書いた「宮沢賢治の肖像」という本がある。これは賢治の行動のしかたや人との接し方、考え方を具体的に伝えている、興味深い文献だ。この本を読むといろいろな発見があるが、そのひとつは、賢治が父親と母親から受け継いだ性格についての話だ。「賢治童話には、暗い作品と明るい作品がある。楽しげに諧謔に溢れたものと、厳しく禁欲主義風のものとである。--------この二つは、賢治では、諧謔と寛容を母から、厳格と禁欲とは父から、うまい具合に半分くらいずつ性格の中に遺伝しているようだ。」と森さんは「父は子をどう見ていたか」の中で書いている。父親が不在で、賢治が母やきょうだいと家にいる時に、賢治が何かを話しだすと、ふざけたような話になって、それがだんだんエスカレートして、皆、笑いがとまらなくなるということがよくあったという。そういう時に父親が帰ってくると、みなは「ビリビリと強く感電したように」緊張するのだ。
    この両面をもつことで、賢治の作品はとても豊かなものになっているのは確かだが、ユーモアの精神は母親の側からの遺伝だという指摘には、なる程と思わせられる。

1998. 12.15 編集日誌 No. 46
    賢治の「インドラの網」は、空気の希薄な夜のツェラ高原を歩く「私」が天の空間に迷い込んで三人の天の子供たちと出会い、子供たちと一緒に日の出を迎える話だ。このインドラの網というのは華厳経や華厳五教章に出てくる言葉だ。インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網で、網の結び目のそれぞれに宝珠がついていて、そのひとつひとつが他の一切の宝珠を映し出すという深遠な世界を示す言葉である。これは、それぞれの場所から世界を感じとっている人たちがインターネットで結ばれてイメージに通じるものがあると思っていた。
    中村量空さんの「複雑系の意匠」(中公新書)を読んでいたら、驚いたことに、それと同じような記述があった。「重層構造の鏡の機能をもつインドラのネット(網)は、現代社会の情報のネットワークに似ている。」「私たち一人一人はインドラのネット(網)の宝珠のようなものである。個人個人が関係を結び、互いの姿を映しあいながら生きている。」
    この本の中には「縁起のパラダイム」という章があり、華厳経の思想を複雑系につい て考える大事なヒントを含むものとしてとりあげている。

1998. 11.25 編集日誌 No. 45
    No.43で、Marianne さんが翻訳した「春と修羅」を数篇を詩の朗読会で読んで、いい反応があったことを書いた。その後にきたメイルによると、朗読会の出席者の中にたまたまいた文芸誌の編集者から連絡があって、Marianneさん訳の賢治の詩が雑誌に掲載されることになったという。
    また、カナダのPhilip さんという人からも、賢治の作品を翻訳して絵本を出したいのだけれど、誰に許可を求めればいいかという問い合わせのメイルがきた。念のため筑摩書房に電話した上で、著作権は期限がきれているのでとくに手続きは必要ないという返信を書いた。
    Philip さんは、5〜6年前に、John Bester さん訳で賢治の作品を読んで感動し、それから彼の人生は変わったという。その影響で童話作家を志すようになったのだ。今も、人間として、作家として、賢治から多くを学びつづけていると書いてきた。
    アメリカのMemmelaarさんは、雑誌で「銀河鉄道の夜」のアニメーションの紹介記事を読んで興味をもち、作品の翻訳をみつけられずに、インターネット上で"The World of Kenji Miyazawa" を詳しく読んでくれたという。それで、賢治の世界をかなり的確に感じとってくれたようだ。Memmelaarさんによると、まわりの世界や生き物たちに対する賢治の感じ方に強い親近感をもち、これは西洋文化の中にはあまり類のないものだと思ったという。Memmelaarさんには英訳の入手方法を伝えて、賢治作品をぜひ読んでくれるように頼んだ。

1998. 11.6 編集日誌 No. 44
    11月8日に横浜市立大学アーバンカレッジで開かれた「環・円海山エコミュージアム・シンポジウム」を聴きにいった。「現代のイーハトーヴォを求めて」で、インタビューしている東和町の空・山・川総合研究所の今橋寿克さんの報告があったからだ。
    今橋さんたちのイーハトーブ・エコミュージアムは、岩手県の農山村を舞台にしているが、この日のシンポジウムのテーマである環・円海山エコミュージアムは都市型エコミュージアムだという。性格の異なる地域でのエコミュージアム構想の対比を通じて、都市型エコミュージアムも面白い可能性をもつことがわかってきた。
    環・円海山エコミュージアムというは、横浜市の円海山のまわりの地域の生態系や歴史の多様なつながりを見つけだし、さまざまな市民グループの間で情報共有をはかり、ネットワーク型のコミュニティをつくっていくことを狙いとしているようだ。篠田徹さんの「円海山ネットワーク」のサイトを見るとわかるように、この地域には、自然保護や自然観察、町づくりなどの多数の市民グループがあるので、それぞれの関心や問題意識をうまくつなげたり、重ね合わせたりすることができれば、さまざまな展開が生まれてきそうだ。

1998. 10.23 編集日誌 No. 43
    以前にNews Mail でも紹介した、「春と修羅」の英訳に挑戦しているイギリスの詩人Marianne さんが近況をメイルに書いてくださった。
    これによると、Marianne さんはすでに「春と修羅」の詩の2,3篇を英訳していて、詩の朗読会で読んでみたのだという。聞き手たちは詩に深い感銘 を受けたようで、人々はすぐにKenjiの名前をメモをして、どうしてこんな素晴らしい詩人の名前を今まで知らなかったのだろうという反応だったという。Marianne さんが賢治の詩の持ち味が伝わる翻訳をしてくれているようで、海のむこうからの嬉しい便りだ。
    また、英文学を専攻しているというインドネシアの大学生からは、"The World of Kenji Miyazawa"のサイトを見てKenji Miyazawaの作品に強く惹かれ、卒論のテーマにしたいと思っているのだけれど、Kenjiについて論じた英語の文献はあるかと尋ねるメイルがきた。
    英文学の指導教官がKenjiをとりあげることにOKを出すかどうか疑問だが、ともあれ、私たちのサイトを通じて賢治作品に惹かれるようになる東南アジアの若者がいることがわかったのはとても嬉しく、また興味深いことだ。しかし、この人は「実はまだKenjiの作品を読んでいないのだが」というので、英訳されている作品のリストを送ってあげた。

1998. 10.12 編集日誌 No. 42
    台風の近づいている日の午後、バリ島の画家マデ・ウィアンタ(MadeWianta)のコレクションを見て、陶然としてしまった。賢治の「銀河鉄道の夜」は、ひとつの作品という鏡に宇宙を映しとろうとしている感があるが、ウィアンタの多くの作品も、宇宙と心の深部を映す鏡のような印象がある。
    ウィアンタの作風を大づかみに伝えようとするには、バリ島のカンディンスキーという言い方をしてもいいかもしれない。抽象的な形と形、色と色の戯れがポエジーを生み、音楽を奏ではじめるところは、カンディンスキーやクレーに通じるものがある。
    しかし、形や色、質感の語りかけが、マクロ的な脈絡でも、その下層でも、さらにその下のミクロ的な部分でも起きる、といった多層性、重層性はマンダラ的で、これが独特な吸引力をつくりだす。この感じは、ガムランとも似ていると思ったら、ウィアンタはガムラン楽団の演奏家でもあるという。
    マデ・ウィアンタ展は、11月29日まで、東京駅のステーションギャラリーで開催されている。

1998. 9.20 編集日誌 No. 41
    ゲーリー・スナイダーさんと山尾三省さんの対談の本が最近、出版されたので、ついでに買ってみた。「聖なる地球のつどいかな」(山と渓谷社)というずい分、おおげさなタイトルの本だ。山尾三省さんは、60年代の後半に「部族」と称する対抗文化コンミューンの運動をしていて、この時期にスナイダーさんと知り合っている。その後、スナイダーさんはアメリカに戻って、1969年からシエラネバタの山の中に住み着く。
    山尾さんも1977年から屋久島に移り住んだ。そして、1997年に山尾さんがシエラネバタにスナイダーさんを訪ねていき、30年ぶりに会ったのだという。
    スナイダーさんは「Living science-----生きている科学」について、詩集の中で"Science walks in beauty" (科学は美の中を歩む)と書いている。この詩句のもとになっているのは、「生きるため、そして精神的な修業のため大事なポイントは美の中を歩むことである」というネイティブ・アメリカンのナバホの言葉なのだという。そして、スナイダーさんが関心をもつ科学について、「私が具体的に興味があるのは、植物学、鳥類学、地学、あとはある種の科学理論、たとえば現代のカオス理論、地球科学、これはつまり気象や大気などの気象学も含めてですね。それから化学物質の基本的な働きなどですね。-------私はこれからの二十一世紀の詩は科学を吸収しないといけないと思っています。」と語っている。他方で、仏教を深く研究している訳だから、なんだか、賢治とほんんど重なっている。そして、賢治のことを聞かれると「私が二十年前に言ったことを知っていますか? 宮沢賢治は二十世紀の日本で、おそらくもっとも重要な詩人ではないかということを言ったんですよ。」とスナイダーさんは答えている。

1998. 9.7 編集日誌 No. 40
    ゲリー・スナイダーさんによる宮沢賢治の詩の翻訳が収録されているのは、詩集 "The Back Country" であることがわかったので、Amazon.comで注文して入手した。
    この詩集は、"FAR WEST" "FAR EAST" "KALI" "BACK" "MIYAZAWA KENJI"という5つの部分からなっている。"FAR WEST"というのは、スナイダーさんが育ったアメリカのことで、"FAR EAST"は日本。スナイダーさんは、1956年から64年にかけて日本に滞在して禅を学んだといい、この時期の詩が"FAR EAST"に入っている。"KALI"は、インドに旅した時の詩、そして "BACK" は、アメリカに戻ってからのものだ。 "BACK"では、インドや日本で身につけた視線からアメリ カを見るようになっているという。
    こうして見ると、最後に収められている "MIYAZAWA KENJI"は、スナイダーさんの世界の一部分として位置づけられていることがわかる。
    翻訳されている詩は、「屈折率」「くらかけの雪」「春と修羅」「雲の信号」「風景」「休息」「有明」「国立公園候補地に関する意見」「牛」「北上山地の春」「命令」「政治家」「月天子」「旅程幻想」「グランド電柱」「松の針」「ぬすびと」の17篇である。

1998. 8.17 編集日誌 No. 39
    賢治関連文献ではないが、あらゆることから学ぼうとした賢治の精神に通じる、驚くべき本を紹介しておこう。
    ネイティブ・アメリカンのイロコイの人たちに伝わってきた口承の歴史を英語にした Paula Underwood "The Walking People----------A Native American Oral History"の星川淳さんによる邦訳である。邦訳の題名は「一万年の旅路------ネイティヴ・アメリカンの口承史」(翔泳社)となっている。
    この口承は、イロコイの人たち(またはその一部)がアジア大陸を旅し、ベーリ ング海峡を渡り、アメリカ大陸を横切って五大湖のほとりに達した長い長い旅路を伝えている。驚くべきなのは、旅を新しい土地や生き物、人々と出会い、新しい知恵を学ぶ機会とみなし、そうした学びを「子供の子供の子供」のために生きた形で蓄え、伝えていこうとする、この人たちの精神である。いにしえの知恵と各世代の学びとを後の世代に生きた形で伝えるにはどうすればいいか、 定住の期間が長くなった時学ぶことへの人々の好奇心が衰えないようにするには------、さういった工夫が遠い世代から代々にわたって重ねられてきたことがわかる、凄い本だ。
    著者のアンダーウッドさんの5世代前のツィリコマーさんがこの口承を守るために、1810年にイロコイ連邦オナイダ族から離れたという。この時に、オナイダ族はキリスト教と伝統的な宗教の折衷の宗教改革を受け入れ、古来の伝承を捨てようとしていたのだ。
    この口承の成立過程については、研究者の批判的な検討がこれからなされていくと思われるが、いずれにしても、ここに集約されている精神がとても貴重なものであることは間違いない。

1998. 8.7 編集日誌 No. 38
    以前に編集日誌 でも紹介したように、北海道室蘭清水丘高等学校では宮沢 賢治の「雪渡り」を英語劇にすること取り組んでいるが、賢治自身も農学校の 教師時代に生徒たちに英語劇を演じさせようとしたらしい。森荘己池(もりそういち)さんの「宮沢賢治の肖像」(津軽書房、昭和49年)を読むと、賢治の教え子の松田奎介さんという方が記憶していた「異稿植物教師」というのが掲載されている。これは普通に知られている劇「植物教師」を賢治が英語劇にしようとしたもので、インチキな植物医師の爾薩侍(ニサッタイ)以外の登場人物はアメリカ人になっていて、農民のほか貴公子、貴婦人などが登場する。様子がおかしいといって爾薩侍のところに農民が相談にくる作物も、陸稲ではなくてトマトになっている。また、貴婦人は、なんとテリヤという名前の蚤(!)の具合が悪いといって連れてくる。
    あいにくこの賢治作・演出の英語劇は、時間が足りずに実現しなかったという。

1998. 7.21 編集日誌 No. 37
    フォーラムの中に開店したゲームセンター「かまねこ軒」は、幸いたくさんの方たちがご来店くださっているようだ。感想の書き込み欄がないせいか感想メールが来ないと思っていたら、うさこさんから、「かまねこさんのゲームで、何度も楽しませていただきました 無我夢中、真剣そのもので遊んだり、時にポワーンと考え事しながらのんびり遊んだりこのゲームにタイマーがついていたら、すぐ失格しそうです 最初はいいけれど、32枚のカードでは、泣きたくなるくらい突破できないので困ります ゲーム全般にそうですが、私はあまり得意ではありません でも、素敵なキャラクターたちに会えるので、つい来てしまいます。」というメールが届いた。
    「かまねこ軒」に登場するキャラクターたちは、もともと英語版の "Characters of Kenji's Works" のために宇佐美とよみさんに描いてもらったものなのだが、日本語版でこのイラストをどう生かすかという、冗談半分の話の中から「かまねこ軒」が生まれた。

1998. 7.14 編集日誌 No. 36
    東北大学植物園ホームページ[http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/index.html#anchor518750]の制作者の平塚明さん(現在は岩手県立大学)から、「宮沢賢治の宇宙」へのリンク依頼のメイルが届いた。じつは、以前から、東北大学植物園ホームページは日本語のミュージアム的なサイトの中で一番優れたもののひとつだと私は思っている。この植物園は仙台市の青葉山にあり、常緑広葉樹林帯と落葉広葉樹林帯の境界領域にあたり、多様な生物を育む原生的な森林として森全体が天然記念物になっているのだという。このサイトでは、この森林の植生、貴重な植物、集まってくる鳥や哺乳動物、地質などについて多面的にたどっていき、関心に応じてこの森の生態系の複雑な成り立ちを具体的に感じとれるようになっている。制作者の何ともすごい意気込みが伝わってくる。「宮沢賢治の宇宙」のリンク集にも、近々、加えさせていただくつもりだ。

1998.7.7 編集日誌 No. 35
    フォーラムの情報欄にも掲載した、結城美栄子さんの陶人形展を東京南青山のスパイラル・ホールで見た。「賢治ワールド」(「宮沢賢治の宇宙」のギャラリーに写真の一部がある)に次ぐ試みで、今回は佐渡を舞台に100体の陶人形をつくっている。佐渡に渡って能舞台に立ってみて、佐渡は島ではなく「海の中の国」だと感じ、海の底のさまざまな生き物のイメージが生まれてきたいう。今回の人形もこうした海の物語の生き物や登場人物や仮面、悪餓鬼たちと多彩で、「賢治ワールド」と同様に人形たちの表情がとても豊かだ。会場では、阿部稔哉さんの写真と結城さんのエッセイを収めた「VISIT----空と海のものがたり」という本を販売していた。ここに収められた写真では、神社で地元のおばさんたちに仮面をつけてもらったり、海の生き物の人形を波打ち際に置いたりして、人形たちを佐渡の自然の中で気ままに遊ばせている。結城さんの心の奥から呼びさまされたキャラクターたちと島の人や景観が結びついて、不思議な空気がかもしだされる。

1998. 6.22 編集日誌 No. 34
    「神楽坂のポチ袋」というサイトを制作している高橋遵さんという方から、その中に「深読み 銀河鉄道の夜」というコーナーをつくったというメイルを頂いた。
    このコーナーで高橋さんは、「学校=賢治の母校盛岡中学」「活版所=川口印刷」「パン屋=天主教会」「家=教浄寺」「牛乳屋=賢治の母校高等農林」「天気輪の丘=北山の北端」「橋=夕顔瀬橋」というように、「銀河鉄道の夜」の物語の舞台を盛岡市に想定することができるといる。なる程これはカンパネルラが溺れる物語とうまく符号している。大変、興味ふかい問題提起なので、「宮沢賢治の宇宙」のフォーラムのQ&Aの欄にも掲載させて頂こうかと考えている。

1998. 5.18 編集日誌 No. 33
    前回のNews Mail でも触れた、日本で5年間教師をして国に戻ったところだというPaulさんから、賢治と英米の文学者との比較を論じたメイルがきた。
    Paulさんの考えでは、英文学の作家や詩人で賢治と共通点の多い人たちが見いだされるのは、ロマン主義時代(1798-1832)だという。この時代のWilliam Wordsworth, Samuel Taylor Coleridge, Charles Lamb, Jane Austin, George Gordon (Lord Byron) , Percy Bysshe Shelley & John Keats は、近代都市の諸問題から逃れられる無垢な自然を愛した。そして、想像力や情緒を強調する、個人の自由を重視するという特徴をもち、抑圧された人たちに強い関心をもつ。そのほか、賢治との類似という点で想起される著作家として、イギリスのC.S.Lewis、アメリカのWalt WhitmanをPaulさんはあげている。
    詳しくは、"宮沢賢治の宇宙"英語版のLetters From Readersをご覧ください。

1998. 5.11 編集日誌 No. 32
    「銀河鉄道の夜」への言及がある加藤典洋さんの「戦後を戦後以後、考える」(岩波ブックレットNo.452)を、神奈川県で教師をしている久保真一さんがもってきてくれた。この中で戦後以後(1970年以降)に生まれた若い人たちが、日本の戦争責任の問題に、自分をごまかさずに対応するには、どういう近づき方があるかを、加藤さんは考えている。そして、「オレには関係ない」という所から出発しないとほんとうに世界を引き受ける所にいけないと言う。この関連を考えるために、アルマンとフレデリックの劇という話が出てくる。生まれてすぐに親に捨てられ養父母にフレデリックと名づけられた、もとアルマンという名前だった子が、7歳になっても知力障害があった。この障害から回復する過程で、自分の中の「原-私」であるアルマンが明るみに出され、「社会化された私」であるフレデリックの基部になるというアルマンとフレデリックの結びつきが必要だったというのだ。
    こうしたアルマンとフレデリックの劇が、世界を引き受ける過程にはいつもある。「銀河鉄道の夜」が心を打つのも、ジョバンニとカムパネルラの関係がアルマンとフレデリックのような原型的な性格をもつからだというのが、加藤さんの指摘だ。「銀河鉄道の夜」を読み直す、興味深い視点の一つが示されている。

1998. 4.27 編集日誌 No. 31
    少し前の編集日誌(No. 27)に書いた、賢治の詩の翻訳の計画をもつMarianneさんに、何かお役にたてれば嬉しいですとe-mailを出したところ、漢字を調べるツールについての問い合わせがあった。言うまでもなく、日本について研究している外国人の人たちにとって、漢字が大きな障害になっている。漢字を書けない人にとっては、漢和辞典を引くのは絶望的に難しい。すぐれた漢英辞典もあるが、これも引くのは簡単とは言えない。Marianneさんも、漢字を調べるのに便利なソフトはないかと書いてきた。
    それでインターネット上のサイトを調べてみると、いくつかの有望な手がかりがみつかった。なかでも、感動的と言っていいのはジム・ブリーンさんのサイト(http://www.dgs.monash.edu.au/~jwb/wwwjdic.html)だ。
    漢字を形の組み合わせで引く"Multi-Radical Kanji Selection"にはまだまだ問題がありそうだが、ある漢字にたどりつくと、そこから先は、さまざまな漢英辞典を比較できるようになっている。インターネット上には、とんでもないものがあるという例のひとつだ。

1998. 4.21 編集日誌 No. 30
    フォーラムのHeather Raabeさんの「どの著作家が賢治に似ているか」という質問に答えて、Eijiさんは、ノヴァリースが賢治と多くの共通点をもつという指摘をしてくださった。
    Eiji さんが挙げているのは、ノヴァリースの生涯の次のような諸点だ。1.地方の富裕な家の長男として生まれた、2.父親は敬虔な信仰をもち、長男を実業に就かせたいと望んだ、3.文学とくに詩とともに医学、鉱物学を学び、芸術と科学の統合を志した、4.多くの偉大な詩と物語を書いた、5.父親の勧めで塩の工場で働いた、6.恋人が若くして亡くなり、それが宗教的な詩作を促進した、7.生涯のほとんどを生まれた地方で過ごした、8.若くして病死した。
    なるほど、不思議に賢治と似た所が多いようだ。どこから、こういう類似が生まれるのか、興味ふかい問題といえよう。

1998. 4.10 編集日誌 No. 29
    News Mail やフォーラムの情報欄でもご案内したように、作曲家宗像和さんの「宮沢賢治作品集」の公演が、3月29日、東京文化会館小ホールで開かれた。年譜を見ると宗像さんが賢治作品をモチーフにした作曲をはじめられたのは、チェロの松下修也さんから「セロ弾きのゴーシュ」の作曲を依頼されたのが最初のようだ。この日のプログラムでは、松下さんのチェロ、岸田今日子さんの語りで「セロ弾きのゴーシュ」が演じられたが、この作品が私には一番楽しかった。
    会場で、「宮沢賢治の山旅」の著者、奥田博さんとお会いし、後日、奥田さんから感想のメールが送られてきた。その中から「セロ弾きのゴーシュ」の部分を引用させていただく。
    <「セロ弾きゴーシュ」は松下修也のチェロで、時には朗々とロマンチックに時には通奏低音風に語りの裏で弾かれ、作品を忠実に(多少の省略はある)岸田今日子が語りで進行する内容。(CDになっている)忠実に読むという点では林光作曲の「セロ弾きゴーシュ」とは対照的。あれは林光演出モノで、明るい「セロ弾きゴーシュ」。こちらはチェロ一本ということもあるが、作品には陰影が漂う。それから「インドの虎刈り」は、こちらの作品の方が優れモノ。岸田さんの朗読は、スピード感が凄い。>

1998. 3.20 編集日誌 No. 28
    News Mailで前にも触れた内藤正敏さんの「遠野物語の原風景」を読むと、金鉱の採掘が北上山地の歴史の重要な柱であることがよくわかる。しかし、賢治の作品には、金山のことがあまり出てこないようだが-------と思っていたら、「風の又三郎」の上の原の牧場の場面には、金山のことが目立たない形で書きこまれていることに気づいた。馬を追っていって道がわからなくなり気を失った嘉助が助けられ、一郎のおじいさんに団子をすすめられる所で、嘉助に「そのわろは金山堀りのわろだな。」とおじいさんが言う場面があるのだ。つまり、三郎のお父さんはモリブデンを探しに来た大きな鉱山会社の勤め人であるのに対して、嘉助の家は伝統的な金山堀りという対照的な設定になっている。(編集長 山本)

1998. 3.13 編集日誌 No. 27
    昨年12月に、Marianneさんという方から、"The World of Kenji Miyazawa" に「春と修羅」の英訳について、e-mailで問い合わせがあった。お答えを送ったが、その後、応答がなかった。Marianneさんの書いてきたメイル・アドレスが不完全で、間違いを推測しながら何度もトライしたので、着いていないのかもしれないと不安に思っていた。
    ところが、最近になって返信があり、この冬は具合が悪く返事が書けなかったとあった。
    Marianneさんは詩人で、出版された詩集もあるという。以前に日本に滞在して、その時に賢治の物語をテキストにして日本語を勉強したことがあるが、その時には読む機会のなかった賢治の詩を読んでみたくなった、できれば翻訳もしてみたいと書いてある。あちこちの、いろいろな方が賢治作品に惹かれ、翻訳に着手しようとしていることがわかってくる。こういう状況をもし賢治さんが知ったら、さぞ喜ぶことだろう。(編集長 山本)

1998. 2.16 編集日誌 No. 26
    友人の井口英子さんが、「無数の賢治たち」(注文の多い出版舎)という小冊子を送ってくれた。この小冊子は、1996年10月に「無数の賢治たち」編集委員会の編集という形で出版されている。賢治生誕100年の「賢治ブーム」に乗り遅れまいとするかのような各メディアの企画が、どれも著名な賢治研究者や文化人に賢治について語らせるというものばかりなことへの疑問から、この小冊子はつくられている。著名でも何でもない普通の人たちに賢治についてどう感じているか、どう考えているかを書いてもらおうという主旨で編集されている。
    これを読むとたくさんの方たちの心の中の「無数の賢治たち」が浮かびあがってくる。その中で心に残ったものをひとつ紹介してみよう。
    吉田静香さんという方の「喪失の心象スケッチ」という文章は「ざしき童子のはなし」と「どんぐりと山猫」のふたつの短い文章からなりどちらもなかなか印象的だが、ここでは後者に触れることにしよう。「おととしの冬、大事にしていた猫が死んだ。死んだ猫の記憶はだんだんと薄れていくのに、あの時の悲しみはそのままに残り、今でも時折ぼんやりした猫の姿を借りて私の夢の中に現れる。」というのが書き出しの部分である。そして後半に、「どんぐりと山猫」が出てくる。
    「あれから、私は『どんぐりと山猫』を読むと死んでしまった猫にもう一度会いたくて、会いたくてたまらなくなる。最後まで閉じてやることができなかった、薄く見開いたままの目を黄色い花で隠し、霜がとけるのを待って泣き泣き埋めた固いむくろが、庭の築山の陰の土の中でゆっくり朽ちていき、いつかその名前をなくしても、愛した猫はどこか遠い所で『やまねこ』になり、ある日突然私にたどたどしい便りをよこす。たった一度でいい。それは、私にとって、ひとつの夢だ。」(編集長 山本)

1998. 2. 3 編集日誌 No. 25
    現代のイーハトーヴォを求めて」でインタビューさせていただいた岩手県東和町の空・山・川総合研究所の今橋克寿さんが、東和町の生涯学習だより「とーてむ」1月号を送ってくださった。この号の「地域文化の創造を語る」という新春対談の中で、東和町に住む音楽家の星吉昭さん(姫神)が、「姫神&縄文まほろば合唱団」について語っている。星さんは東和町に移り住んで姫神の音楽活動をするうちに、ヨーロッパの古典音楽からの影響をとり除いた、「地声の合唱団」をつくりたいと考えるようになったという。今の所、日本には地声の発声のメソッドがないが、海外ではブルガリアのブルガリアン・ボイスが女声の地声の合唱団の例で、グルジアには男声の地声の合唱団があるそうだ。星さんは、東和町の老若男女に加わってもらい、岩手に根ざした「地声の合唱団」をつくっていこうとしているようだ。どんなものが生まれつつあるのか、実際に聴いてみないことにはよくわからないので、そのうちぜひ聴かせていただきたいと思っている。(編集長 山本)

1998. 1.21 編集日誌 No. 24
    山村や離島を中心に日本中をくまなく歩き、無数の庶民の話を聴き、記録したことで知られる宮本常一さんは、戦後の一時期、「雨ニモマケズ」にひかれて「デクノボウ」という同人誌を出していたという。「自分のことだけ一所懸命になって生きることもいいだろうが、どこかの片隅で息をひそめて生きている人も少なくはない。そういう人たちといっしょに歩いていくことも大切なことではないかと思った」と宮本さんは記している。宮本さんの「民俗学の旅」(講談社学術文庫)を読むと、こうしたデクノボウ精神は、周防大島の一介の農民だった祖父や父親からひきついだものであることがわかる。宮本さんが島を離れる時に父親に言われた、十箇条の心得というのがすごい。「(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畠に何が植えられいるか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。」というところから始まって、最後につぎの項がある。「(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。」父親のこの言葉の通りに、その後の宮本さんの一生の旅は続けられた。そして、時流に乗ろうとする人たちが目を向けないことに、宮本さんの視線はいつも向けられていた。(編集長 山本)

1998. 1. 9 編集日誌 No. 23
    ●William Baxter さんというアメリカの方から、「宮沢賢治の宇宙」の英語版にメイルが届き、このサイトをおおいに楽しみましたと書いてあった。どんな所が面白かったのでしょうと尋ねたところ、かなり詳しい返信があった。そこには、「このサイトの深みのある所がとても気に入った。ここから開けてくる世界と哲学は、読む者の人生についての見方を豊かにしてくれる。」「豊かなイラストレーションが、賢治の作品のモティベーションや哲学についての理解を助けてくれた。ギャラリーもとても素晴らしい。」と書いてある。このように、私たちのページの狙いを感じとってくれる人がいるとは、嬉しいことだ。Baxter さんがいた高校はインターナショナル・スクールで、クラスの半分が日本人だったので、日本人の親しい友達がたくさんいて、北アメリカの文化と違いが大きい日本の文化に強い関心をもっているのだという。それで宮沢賢治の名前を知っていて、熱心にページを読んでくださったようだ。(編集長 山本)

1997.12. 18 編集日誌 No. 22
    ●賢治の作品「楢ノ木大学士の野宿」に出てくる楢ノ木大学士は、貝の火商会の赤鼻の支配人というなんだかいかがわしい人物に上等な蛋白石さがしを頼まれて、イーハトーヴォに出かける。この大学士は、野宿をして周囲の山や鉱石が出てくる夢を楽しむ浮き世ばなれした学者である。しかし、支配人に対して、「僕と宝石には、一種の不思議な引力が働いてゐる」などといい加減なほらを吹いて蛋白石さがしを安請け合いするあたりは、この大学士は山師的な性格も帯びているようだ。
    かつて大学出が少なく希少価値が高かった時代には、大学士という称号は山師的な人物にとっはこけおどしの道具として重宝されたようだ。内藤正敏さんの「遠野物語の原風景」(ちくま文庫)を読むと仙台で「赤門学士院」という名前で骨接ぎをしていたという山師の話が出てくる。この赤門さんは、遠野の金鉱を試掘し景気のいい話をして多くの人を巻き込んでおきながら、鉱夫に給料も払わずにあっさり閉山してしまった無責任な人物だ。この人の家を仙台の大町に訪ねてみると、骨接ぎのほか、自動車学校、そろばん塾、アンマ、灸の学校と多角経営をしていて、入口の門を赤く塗っていたという。 (編集長 山本)

1997.11. 20 編集日誌 No. 21
    ●賢治が「法華経」をあがめていたことは、よく知られている。しかし「法華経」のどんな点が賢治を惹きつけたのだろうか。岩波文庫の「法華経」のサンスクリット語原典からの口語訳を読んだかぎりでは、それがあまりよくわからないでいた。しかし、賢治は「漢和対照妙法蓮華経」を読んでいたのだからと思い、漢訳の読み下し文の部分を読んでみた。
    漢文で読むと、リズム感と詩的な力強さがあり、この経典は賢治の資質に訴える要素に充ちているのがすぐに納得できた。たとえば、「法師功徳品」の最初にはブッダの言葉として、つぎのような部分が出てくる。「若し善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)にして、この法華経を受持し、若しくは読み、若しくは誦し、若しくは解説(げせつ)し、若しくは書写せば、この人は当に八百の眼(げん)の功徳(くどく)、千二百の耳(に)の功徳、八百の鼻(び)の功徳、千二百の舌(ぜつ)の功徳、八百の身(しん)の功徳、千二百の意の功徳を得べし。この功徳をもって六根(ろっこん)を荘厳(しょうごん)して皆、清浄(しょうじょう)ならしめん。この善男子・善女人は父母所生(ふもしょしょう)の清浄なる肉眼(にくげん)をもって三千大千世界の内外(ないげ)の所有(あらゆ)る山・林・河・海を見ること、下(しも)は阿鼻(あび)地獄に至り、上(かみ)は有頂(うちょう)に至らん。亦、その中の一切衆生を見、及び業の因縁・果報の生処(しょうじょ)を悉く見、悉く知らん」(岩波文庫「法華経」下-P.90)
    「法華経」を学ぶとその功徳で、感覚や心身が清浄になり、澄みわたって、三千大千世界の内外のあらゆる事柄が見え、あらゆる音が聞き取れ、あらゆる香がかげるようになっていく言っている。こういうふうに、三千大千世界の隅々に、ブッダの声が伝わっていったり、三千大千世界の隅々の音が聞きとれるといったイメージが「法華経」の中では繰り返して現われる。これは森羅万象と共振する賢治の資質にぴったりだったに違いない。 (編集長 山本)

1997.11. 15 編集日誌 No. 20
    ●「宮沢賢治の宇宙」をオープンしたのは、昨年の10月31日だったので、1周年を迎えたことになる。インタビューをさせていただいたり、メイルで激励してくださったり、リンクをしてくださったりしたさまざまな方々の力添えのお陰で、この1年の間にあちこちに向かって枝葉をのばすことができた。多謝!
    振り返ってみると、インターネットの世界では、1年間はずいぶん長い時間だという感じもする。つねに工事中で少しずつ増築を続けていくので、気がつくといつのまにか、かなりの大きさの建物になっている。今後も 着実に進んでいきたいと、思いを新たにしている。
    今、準備が進行中で、今年中に掲載をはじめたいのが、「宮沢賢治の作品世界」の中の「春と修羅」から「銀河鉄道の夜」へ>というシリーズだ。これまでに掲載した「宮沢賢治の作品世界」のテキストは、童話の作品紹介が中心で、詩はとりあげていなかった。詩の紹介を入れるプランはあったのだが、どういう視点から接近するのがいいか、決めかねていた。
    しかし、「春と修羅・序」を何度も読んでいるうちに、「春と修羅」から「銀河鉄道の夜」へという道がはっきりと見えてきた。そして、この視点からの「春と修羅」第1集を読むシリーズを書くことができた。 安養寺昭さんにお願いしている挿し絵ができた所から、掲載をはじめることにしたい。 (編集長 山本)

1997.10. 20 編集日誌 No. 19
    ●Richmond High School の日本文化のコースを担当しているBrooks さんが、"The World of Kenji Miyazawa"を授業に使いたいというE-Mailをくださったと、前に(編集日誌No. 16)書いたが、そのあとで、賢治の作品を読んで書いた生徒さんの感想集が、Brooks さんから届いた。
    クラスでは、賢治の「四又の百合」と「水仙月の四日」では感想を書くという課題が先生から出されたようだ。送られてきた英文の感想は"The World of Kenji Miyazawa" の中の Letters from Readers の欄に掲載してある。そのうちいくつかを翻訳してみると--------
    「水仙月の四日」のメッセージは、私たちは自然に対して耳を傾けなればならないということだ。そうすれば、自然は私たちに心配りをしてくれる。それが雪嵐の理由についての説明にもなる。もし、雪童子のいうことを聞かなかったら、子供は死んでいただろう。 (Ryan Morrisey, Grade 12)
    「四又の百合」の最後の黄金の光は、ブッダがはじめて訪れるというので準備に余念のない人々に対するブッダの感謝のしるしのようだ。ブッダは、人々のたがいの寛大さを喜んでいる。 (Rachel Mollenkopf, Grade 12)  (編集長 山本)

1997.10. 16 編集日誌 No. 18
    ●前に(編集日誌No. 15)触れた、インターネットを使ったNHKの番組「地球法廷----あなたが選択する地球の未来」でインタビューを受けているBrad McCormick さんに、感想をメイルで送ったところ、しばらくして返信がきた。その中に、New York Timesに京都の近くの "Ear Mound" のことが書いてあったが知っているかとあった。
    McCormick さんによると1597年に日本のサムライたちが韓国を征服しようとして出かけ、多数の人々を殺し、その証拠に日本に送った1万以上の耳が京都の耳塚に埋められている。韓国人は、これを日本人の残酷さを示すシンボルと見なしている、とNew York Times は伝えているそうだ。"Ear Mound"とは、たぶん「耳塚」だろうと思い、サーチエンジンで検索してみると京都新聞のサイトで、秀吉をまつった伏見の豊国神社の西側にこの耳塚があることがわかった。たくさんの耳は出兵した秀吉に送られた訳である。他のサイトを見ると、韓国から日本を訪れる人たちはこの耳塚によく立ち寄っている一方、日本人にはあまり知られていないことがわかってくる。こういう歴史認識の大きなギャップができるのは、やはりまずいのではないか。(編集長 山本)

1997.9. 16 編集日誌 No. 17
    ●検索エンジンは使い方によっては、面白い発見のきっかけとなる。そんな例のひとつを紹介しよう。Infoseek に"Deer Dance" というキーワードを入れて検索してみる。そうすると78ほどのサイトが出てくるが、そのうちかなりの部分は、"The World of Kenji Miyazawa" の中の「鹿踊りのはじまり」を紹介したページとそれに言及したページである。これは予想どうりで、問題はそれ以外にどんなものが出てくるかだ。興味ふかいことに、「鹿踊りのはじまり」の鹿踊り以外で、検索された主なものはネイディブ・アメリカンの鹿踊りである。そのページをたどっていくと、北米のYaquiやメキシコのPueblo の人々が神聖な鹿踊りを伝えていて、踊り手は角のあるかぶりものを頭につけ、太鼓のリズムで踊るものらしいことがわかってくる。岩手などの鹿踊りと共通する点も多いようだ。(編集長 山本)

1997.9. 8 編集日誌 No. 16
    ●"The World of Kenji Miyazawa" を見て、さまざまな方からE-Mail がくる。最近は、Richmond High School の先生のBrooks さんという方が、"The World of Kenji Miyazawa" を日本文化のコースの授業に使いたいというE-Mailをくださった。Brooks さんは、賢治がもっとも好きな作家の一人だと言うが、賢治を知ったきっかけが面白い。7年ほど前に、Richmond High School に交換学生として岩手県から一人の少女がやってきて、彼女が「銀河鉄道の夜」のビデオを日本から携えてきたのだ。クラスメイトたちは日本語はわからないにもかかわらず、その作品にひきこまれた。それ以来、Brooks さんは賢治の作品を好んで読むようになり、クラスではずっとこのビデオを教材にしているのだそうだ。(編集長 山本)

1997.8.20 編集日誌 No. 15
    ●番組づくりにインターネットを活用した「地球法廷----あなたが選択する地球の未来」が、NHKの衛星第一放送で8月2日と16日に放映された。この番組では、広島、長崎への原爆投下に対する賛否についての国際的な討論の場 をインターネット上につくり、その議論に加わった主な人たちのところにNHKのクルーが出かけてインタビューをするという方法をとっている。この中でインタビューを受けているアメリカの知識人の一人は、最初、広島への原爆の投下は正しかったという意見を書きこんだが、このインターネット上の議論の過程で資料を検討しなおし、意見を訂正している。アメリカ政府の原爆投下の主な動機は、米軍兵士の犠牲を防ぐことではなく、戦後のソ連との抗争を有利にすることにあったと考えるようになったためである。
     この人の名前は、Brad McCormick さんといい、じつは以前に"The World of Kenji Miyazawa" にもアクセスしくださり、その後 E-Mail の交換が続いている。そのうち、戦時中の日本についての対話の部分を、前にも紹介したように、Correspondence by E-Mail に掲載してある。(編集長 山本)

1997.8.15 編集日誌 No. 14
    ●このところ、「宮沢賢治の宇宙」の英語版のリンク集を拡充するための作業を続けている。
    賢治を出発点にしてどういう方向にリンク先を拡げていくのがいいのか、いろいろ模索中だ。Infoseek , Altavista などで検索をすると"The World of Kenji Miyazawa" をリンク集に入れてくれている外国語サイトも、だんだん増えてきている。
    中でもJapanese Literature ,Resource at Duke は、かなりよく整理された日本文学研究のガイドで、古事記や万葉集などデジタル化されている原典についての情報も豊富である。文献を入手しにくい海外の研究者にとっては、デジタル・テキストの存在が大きな意味をもつわけだ。(編集長 山本)

1997.7.31 編集日誌 No. 13
    ●東和町の空・山・川・総合研究所の今橋さんから、岩手県立岩泉高校の田野畑校の生徒会のホームページ がとてもよくできているという話を聞き、岩泉から戻ってからサイトを訪ねてみた。
    この田野畑校は生徒数が106名という小さな学校だが、インターネット上の生徒会誌からこの高校の皆さんたちの元気のよさが伝わってくる。たとえば、田野畑に伝わる郷土芸能菅窪(すげくぼ)鹿踊(ししおどり)・剣舞(けんばい)を伝承する踊組がこの高校にあるが、このグループが全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門で優秀校に選ばれ、国立劇場で公演する過程が日記に記されている。新潟での総合文化祭には全校生徒が応援に行ったので、一番小さな高校なのに参加人数が一番多いという事態が起きたという。代々伝えられてきた芸能によせる田野畑の地域の人たち熱意が感じとれる。
    このサイトには、「宮沢賢治のリンク集」もあり、「宮沢賢治の宇宙」もその中に入れてくれていた。(編集長 山本)

1997.7.15 編集日誌 No. 12
    ●6月21日から23日にかけて、「現代のイーハトーヴォ」を求めての取材のために岩手県を旅し、岩泉町を訪ねた。「森と水のシンフォニー」をキャッチフレーズにしている、豊かな広葉樹林と美しいせせらぎに恵まれた町である。盛岡から車で2時間という立地条件のため過疎化が進行中であるが、そんな中で、自然に根ざした充実した暮らしと循環型の産業づくりをめざして、着実に歩む人たちの話を聞くことができた。
    純木家具の工藤広太さんは、賢治の後輩にあたる方だが、広葉樹の価値が評価されず安い価格で販売されていたことに心を痛め、数百年の樹齢の素材の持味を生かした家具づくりを始め、着実に顧客の開拓を続けてきた。また、工藤さんたちは、残された広葉樹の豊かな森を維持するために、「ふるさとの森」を選び、町が買い取るなどの方法で保全する「ふるさとの森づくり」事業を進めている。
    そのほか岩泉にインド・ミティラー地方の民俗画展を岩泉に呼んだ「この指とまれ」の会の佐々木信子さん、岩泉で今も語りつがれている民話の記録を続けている高橋貞子さんの話など、整理できたところから「現代のイーハトーヴォ」に掲載していきたい。(編集長 山本)

1997.6.13 編集日誌 No. 11
    ●岩手の代表的な伝統芸能が一同に会する珍しい機会だったので、日本文化デザイン会議'97岩手の盛岡劇場の6月1日のプログラムを見にでかけた。ここで二子鬼剣舞や餅田鹿踊とともに、原体念佛剣舞連の舞を見ることができた。原体剣舞連は、賢治の dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah の詩で有名だ。しかし、これを踊るのはかわいらしい小学生たちなので、この詩から想いうかべる勇壮な感じとはたいぶ隔たりがある。この詩は「種山ケ原」にも出てくる。逃げた牛を追っているうちに霧の中で気を失った達二の夢の中に剣舞が現れるのだ。この場面は後に「風の又三郎」の中に取り込まれ、夢の中に現れるのは、剣舞から又三郎にかわる。つまり、賢治にとって剣舞は、風の又三郎と同様に死に近い危険を帯びるとともに、憧れの気持ちを感じさせる、はるか遠いところからの始原的な呼びかけだったのだと思われる。こうした賢治作品における剣舞と、岩手で継承されてきたさまざまな剣舞やそれを支えてきた水脈との関係をたどろうとすると、多くの疑問や問題に気づく。(編集長 山本)

1997.5.29 編集日誌 No. 10
    ●見田宗介さんの「宮沢賢治----存在の祭りの中へ」(岩波書店・同時代ライブラリー)は、数ある賢治論の中でもっとも触発的なもののひとつだと思う。内容については、いずれどこかのコーナーで紹介したいが、今回は補章の中の「シャイアンの賢治」を引用する。<別のアメリカ原住民シャイアンの人タシナ・ワンブリが日本に来て、宮沢賢治に強く魅かれ、「鹿踊りのはじまり」や「なめとこ山の熊」をシャイアンの使うことばに訳して書き送ったところ、アメリカに住む部族の人たちのほんとうに深い共感を呼んだという。彼女が日本に来て親しくなった日本の友に、シャイアンに伝わるいくつかの話をしたところ、その友人がおどろいて、「日本にもそれと同じ話がある。」と語ってくれたのが、賢治のいくつかの童話だという。>賢治とネイティブ・アメリカンという結びつきは、なかなか興味ふかい。このタシナ・ワンブリさんのことをもっと詳しく知りたいものだ。シャイアンの人のサイトに頼んで探してもらったが、今のところわからない。(編集長 山本)

1997.5.16 編集日誌 No. 9
    ●4月10日の「編集日誌」で、賢治の「農民芸術概論綱要」とウィリアム・モリスの関係に触れたところ、「まさ☆まさ」さんが京都で開かれているウィリアム・モリス展についてのメイルをくださいました。「フォーラム」でそれを読んだ「のはら」さんからは、「宮沢賢治の野原」にもウィリアム・モリスについて少し書いてあるという投稿が届きました。「のはらをさんぽ」の中の「月明郷とイーハトヴ」という項を見ると、宮沢賢治やウィリアム・モリスに近い精神をもつ人として、山崎斌さん(草木染研究家山崎青樹さんの父親)のことが書かれています。山崎斌さんは、昭和大恐慌の時の養蚕農家の窮状を見かねて、農家による手織紬の生産を指導し、その時に古代からの植物染料を甦らせることを思いたったのだそうです。この「宮沢賢治の野原」には、「野の素材たち」というコーナーがあり、建物の内装に使う自然素材を中心に「野の素材」に関する文献やサイトが集められていることにも気づきました。というように、賢治+ウィリアム・モリスを入口にして、自然素材や手仕事に関心をもつ人たちと賢治とのさまざまな結びつきが見えてきつつあります。こんな具合に、インターネット上で、賢治をめぐるさまざまな方向へのテーマの展開がどんどん起きてくれば面白いと思います。(編集長 山本)

1997.4.16 編集日誌 No. 8
    ●宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の中には「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」という言葉が出てくるが、賢治の残したメモによると、この部分ではウィリアム・モリスの言葉 "Art is man's expression of his joy in labour" が参照されている。賢治の講義をきいた伊藤清一氏のノートによるとウィリアム・モリス案として「機械的な労働を創造にまで戻すこと」という部分がある。「宮沢賢治の理想」という著書(晶文社)で賢治の「農民芸術概論綱要」を詳しく検討したMallory Blake Fromm さんによると、賢治はジャーナリストの室伏高信の著作を通じてウィリアム・モリスを知り、「ユートピア便り」の翻訳を読んだのだろうという。こうした背景がわかると「農民芸術概論綱要」の格調高い呼びかけがどういう文脈上にあるのか、理解しやすくなる。ウィリアム・モリスの仕事や思想について知るには、インターネット上にもさまざまなサイトがある。興味のある方は英語のサーチ・エンジンで William Morris と入れてみてください。(編集長 山本)

1997.3.26 編集日誌 No. 7
    ●綱澤満昭さんの「宮沢賢治 縄文の記憶」(1996年、風媒社)を読んだ。この本では、周囲の農民たちの稲作の作柄を少しでもよくすることに心血を注いだ、賢治の思想や動機が検討されている。そういう意味では賢治の「弥生的」な側面に、この本のかなりの部分がさかれている。他方で「稲作農民に追いやられ、征服されていった」山民や生き物たちの悲しみに、賢治はより深く共感していたと著者は言う。という点では、賢治は「縄文的」な心の持ち主だったことになる。賢治の中の「弥生的」なものと「縄文的」なもの、その両方が描かれているのがこの本の興味ふかい所だ。
    最近読んだものの中に、これとよく似たタイトルの「縄文の記憶」(1996年、紀伊国屋書店)というのもある。こちらの著者は小説家の室井光広さんだ。縄文の土偶、仮面、土器、漆工芸品などを手がかりに、内なる「縄文の記憶」を呼び覚ましていく触発的なエッセイだ。この本では、賢治は「あとがき」でちょっと顔を出すだけだが、賢治についてそのうち本格的に書いてもらいたい著者の一人だ。(編集長 山本)

1997.2.13 編集日誌 No. 6
    ●工事中の「イーハトーヴォと北への旅」の項では、賢治の作品と岩手県の風土の関係をたどる内容ができあがりつつある。この項には、賢治と関わりの深いさまざまな場所のイメージが伝わる写真を掲載したいので、この件について「私にとっての賢治」に登場して頂いている登山家の奧田博さんに相談にのって頂いている。 花巻にもよく足をのばされる奧田さんがくださったメールの末尾につぎのようにあった。

    「今、花巻は昨夏が嘘のように静まりかえっています。本来の町に戻ったようです。今の静かで寒い季節もまた、花巻・賢治の旬です。」(編集長 山本)


1997.1.29 編集日誌 No. 5
    ●「銀河鉄道の夜」を英語に翻訳しているロジャー・パルバースさんが、新しい著書「日本ひとめぼれ」(岩波書店・同時代ライブラリー)を送ってくださった。パルバースさんは賢治のことを「地方コスモポリタン」だと言っているが、この本を読むとパルバースさん自身の生き方の基本姿勢が「コスモポリタン」という言葉にこめられていることがよくわかる。
     ユダヤ人の家系にアメリカで生まれ、オーストラリアに帰化し、日本に住んでいるパルバースさんは、「あいつはアメリカ人でも日本人でもユダヤ人でもオーストラリア人でもない-----そういう人に、ぼくはなりたい。」と書いている(編集長 山本)。

1997.1.20 編集日誌 No. 4
    ●「現代のイーハトーヴォを求めて」の中の「楽農民」のところに登場していただいているグリーン・ゲリラの田所さん夫妻からかわいい猫のイラストが入った葉書がきました。

     「こんにちは、お元気ですか。先日、インターネットをのぞいてみました。素敵なページにとりあげられてうれしく思います。改めて、自分たちもはりきらねばと感じています。今年は田1反1セ、畑7セを耕します。
     すきとほった食べ物を召し上がりにまた遊びにいらして下さいね。新顔の"拾得"(注:家族に加わった猫の名前。もともと寒山という子犬がいる)もお待ちしております。
     どんどん賢治のネットが広がることを楽しみにしています!〜田所浩光・正美」

     花巻近辺に行かれる方は、東和町のグリーン・ゲリラを訪ねてあげてください(編集長:山本)。


1997.1.1 編集日誌 No.3
    ●新年おめでとうございます。
     「宮沢賢治の宇宙」をオープンしてから約2ケ月がたちました。この間にずい分たくさんの方にこのサイトを利用していただき、激励のメイルをくださった方も少なくありませんでした。あらためてお礼を申しあげます。
    しかし、このサイトの狙いのひとつである「宮沢賢治を海外に紹介する」という点については、いまの所ほとんど成果をあげていないのではないかと思われる状態です。情報波及の要になるリンク先をうまくみつけられていないためです。こうした問題の克服が新年の重点課題のひとつです。利用者の皆さんからも、アドバイスをいただければ幸いです。ほかにも課題はたくさんあるのですが、もうひとつあげれば、インターネット上の賢治ファンどうしの対話や情報交換の場として「宮沢賢治の宇宙」を役だてて頂く工夫です。どういうやり方がいいか、いろいろ試みてみたいと思っています。
     では、今年もよろしくお願いいたします(編集長:山本)。

1996.12.26 編集日誌 No.2
    ●「現代詩手帖」11月号の賢治特集を見ていたら、賢治の「山男の四月」の山男は台湾の「高砂族」をモデルにしているという主旨のことを、村井紀さんという方が書いている。この話の中の「支那人」の登場の仕方などから考えて、なるほどと思った。と同時なやや複雑な思いがした。12月のはじめに私は、かつて「高砂族」と呼ばれた、台湾原住民の人たちを訪ねてきたからだ。屏東県のパイワン族の人たちは、ユーモアと創造的なエネルギーにみちた人たちだった。この人たちが「山男の四月」を読んで、この山男は「高砂族」だと言われれば、不快な感じをもつのではないか。
     この話が入っているかどうかはわからないが、王敏さんが中国語に翻訳した「宮沢賢治作品集」を入手して、今回お世話になったパイワン族の方たちに送って読んで頂くことにしようと思っている。
    ●先週からオープンした「現代のイーハトーヴォ」では、岩手における新しい地域づくりの動きを賢治との関連で辿っていきたいと思っています。ご意見、ご感想、ご質問などをお寄せください(編集長:山本)。

1996.12.20 編集日誌 No.1
    ●この欄では、「宮沢賢治の宇宙」編集チームの日々の動きや、読者の皆さんへのメーセージを載せることにします。ときどきのぞいて見てください。
    ●13日に「銀河鉄道の夜」の英訳 "Night On the Milky Way Train" の訳者ロジャー・パルバースさんを京都に訪ねた。パルバースさんの翻訳は、このサイトの「宮沢賢治の作品世界」で引用させて頂いている。今回の訪問は、翻訳をこのサイトから有料でダウンロードできるようにするサービスについて相談のため。このサービスは今年中にスタートさせたかったが、作品のデジタル化に時間がかかりそうで、来年になってしまいそう。
    ●訪問の際、パルバースさんと賢治について、インタビューをさせて頂いた。まとめは日本語文を編集部でつくり、その英訳はパルバースさんがご自分でやってくださることになった。掲載は1月半ばくらいになりそう。(編集長:山本)

宮沢賢治の宇宙 フォーラム