花巻農学校と羅須地人協会


 盛岡高等農林学校の研究科をおえて花巻に戻った賢治は、花巻農学校(現・花巻農業高校)の教師となる。約4年間の教師生活の後、北上川の段丘の上の宮沢家の別宅で一人暮らしをはじめる。そこでみずから農作業をしながら、羅須地人協会をつくり、若者たちを集めて土壌学、芸術論を教えたりした。
 羅須地人協会の活動に使われた建物は、花巻農業高校の敷地に移築され、同窓会の手で維持されている。

「イーハトーボ農学校の春」

 「まぶしい山の雪の反射です。わたくしがはたらきながら、また重いものをはこびながら、手で水をすくふことも考えることのできないときは、そこから白びかりが氷のやうにわたくしの咽喉(のど)に寄せてきて、こくっとわたくしの咽喉を鳴らし、すっかりなほしてしまふのです。」
 「さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛んであるきながら春が来た、春が来たをうたってゐるよ。ほんたうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。」〜ちくま文庫「宮沢賢治全集」6

寒い夏と飢饉
 花巻農学校で土壌学などを教え、羅須地人協会の時代にも、周囲の農民たちから依頼されて多くの肥料設計を行った賢治にとっての大きなテーマは、稲が実る時期に十分に気温が高くならない「寒い夏」の被害をいかにして防ぐかということだった。
「グスコーブドリの伝記」
 「ところがどういふわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけると間もなく、まつしろな花をつけるこぶしの樹もまるで咲かず、五月になつてもたびたび霙(みぞれ)がぐしやぐしや降り、七月の末になつても一向に暑さが来ないために去年播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、大抵の果物も、花が咲いただけで落ちてしまつたのでした。
 そしてたうとう秋になりましたが、やつぱり栗(くり)の木は青いからのいがばかりでしたし、みんなでふだんたべるいちばん大切なオリザといふ穀物も、一つぶもできませんでした。」〜ちくま文庫「宮沢賢治全集」8

イーハトーヴォの四季 イーハトーヴォの風景