ゴーシュの時代とまち

佐藤 克明さん(音楽評論家)


以下は、日本フィルハーモニー交響楽団が企画・制作した音楽物語「セロひきのゴーシュ」(寺嶋陸也作曲および「田園」交響曲の室内楽版への編曲)のプログラムのために描いた小文に若干手を加えたものです。日本フィルは、これまで25年間、通称「親子コンサート」という、子どもが家族とともに楽しめる企画のコンサートを毎年、主に夏休みの時期に数多く開いてきました。日本フィルが先鞭をつけたこの種のコンサートは、その後多くのオーケストラがおこなうようになりましたが、子どもはテレビの人気番組の音楽や一般的は小品名曲でいい、という安易な企画も少なくないように思われます。
日本フィルは、このコンサートの初期から、子どもたちの現状を学んだり、子どもたちの反応と楽団員の実感をもとに議論したりして、企画を練り上げてきました。私も長いことそこに関わってきました。ベートーベンの「運命」交響曲は、学校の音楽鑑賞では有名な第1楽章しか取り上げませんが、全曲演奏したらはたして子どもたちは最後まで聞いてくれるだろうか、部分ではなく全曲を聞いてほしいが、などと検討して、実際に演奏したところ、子どもたちの集中力や反応がよかったのは、他の小品ではなく、「運命」全曲だったといった、注目すべき経験もありました。
こうした歩みの上に、室内楽規模の作品として「セロひきのゴーシュ」が創られ、すでに各地の子ども劇場・親子劇場などで公演されています。

宮沢賢治は、「セロひきのゴーシュ」をいつ書いたのでしょうか。あらためて読み返して、最初の1行から立ち止まってしまいました。

「ゴーシュは町の活動写真館でセロをひく係でした。」
活動写真館とは、もちろんいまの映画館のことです。映画がまだ無声の時期、上映には活弁(活動写真弁士)があらすじやせりふを語り、楽士が伴奏や効果音を受け持っていました。ゴーシュはその1人というわけです。ではそれはいつごろのことか、この「町」とはどのような町なのか、と考えていきますと、わからないことがでてくるのです。
映画館の伴奏楽士については、堀内敬三著「音楽五十年史」(1942年、鱒書房刊)に、およそ次のようなことが述べられています。

明治19年(1886年)、最初の職業的演奏団体として、吹奏楽の東京市中音楽会が発足、企業の開業式や園遊会、ホテルなどに招かれて演奏をしていたのが、次第に同種団体が増え、関西にも生まれた。その後、広告業者が町まわりの宣伝に使うようになって、音楽的水準を問わない楽隊(大正初期からはジンタとよばれた)は全国に広がった。広告宣伝の町まわりのほかに、サーカス、奇術、運動会、そして活動写真にも登場するようになった。
映画館は日露戦争(1905〜6年)後、全国に広がり、ジンタはそこに入り込んでいったが、やがてピアノ、ヴァイオリンが入るようになって、地位が下がった。明治43年(1910年)、浅草のオペラ館で、活動写真と余興のダンスの伴奏にヴァイオリン、チェロ、コントラバス、ピアノ、クラリネット、コルネット、トロンボーンの合奏を用いて以来、各館で小管弦楽が用いられるようになった。邦画時代劇にはおはやしとの和洋合奏もこのころから行われた。管弦楽はここで初めて大衆と接したのである。
管弦楽の普及には、もちろんこれ以外にもいろいろな動きが関わっていますが、ここでは省きます。映画館の楽士について、「音楽五十年史」の先を読んでみます。
映画館の管弦楽は、多くは5、6人の合奏で、行進曲とか舞曲、邦楽俗曲のジンタ的楽曲が多かったが、大正7年(1918年)銀座の金春館にできた波多野兄弟の管弦楽団は、序曲、組曲、新しい舞曲などを演奏して好評を博し、大正8年松竹は島田晴誉楽長のもとに優秀な楽士をそろえ、大正9年全国に松竹の映画館網完成とともに各地の一流館に優秀楽士を配した。「ウィリアム・テル」序曲、「アルルの女」組曲、「ペール・ギュント」組曲が広まったのはこのころからである。
しかし、ここに音の出るトーキー映画が入ってきました。日本ではじめて外国のトーキー映画が上映されたのは1929年(昭和4年)、その翌年には最初の国産オールトーキー映画「マダムと女房」が完成、上映されています。

昭和5年から8年の間に全国の主要映画館は発声装置を付けた。昭和7年新宿武蔵野館楽士弁士の解雇反対争議、翌年松竹各館の争議があり、結局全国五千の映画館楽士は失業した。

「音楽五十年史」と同時期、同じ出版社からさまざまな分野の五十年史が出ています。その一つ、筈見恒夫著「映画五十年史」には、トーキー化による楽士弁士の解雇と争議は触れられていません。軍国主義のもとで言論・出版に検閲があり、ストライキ権がなかった1942年(昭和17年)、たんなる事実の記録にせよ、堀内敬三は無意識では書けなかったでしょうし、よく検閲に引っ掛からなかったものです。
「全国五千の楽士」という数字は、たぶん日活、松竹、東宝などの映画館数からの推計で、主な都市についての数字ではないでしょうか。それは、以下の日立市の礼からもわかるように、地方小都市では正確に捉えられない流動的な要素と裾野の広がりがあるからです。園部三郎著「音楽五十年」(1950年、時事通信社刊)は、4980人ほどとより細かく述べていますが、これも同様な推計でしょう。
これに関連して、私は茨城県日立市で音楽文化史的調査・取材をした際、活動写真の伴奏がどのように行われたかについても注目しました。日立市では、1905年(明治38年)に創業した日立鉱山の発展につれて、1913年(大正2年)に芝居小屋(劇場)の栄座と本山劇場、1917年には共楽館が開館し、歌舞伎、浪曲、映画、実演、レビューなど多彩な催しが行われるようになりました。映画は、たとえば栄座の場合、1935年から東京の帝国キネマ、大都映画と提携してフィルムを1週間借り、栄座で4日間、あとは周辺の町や炭坑を巡業しています。伴奏楽士は、ピアノ、ヴァイオリン、三味線など5人、弁士は4人で住み込み、映写技師は5人で住み込みが2人などといった記録が残っています。東京や大阪などの大東京でトーキー化が急速に進んでも、地方小都市では数年遅れで、その間、1人から数人の楽士による伴奏が行われていたのでした。生徒に見せる映画は、弁士も楽士も学校の教員が代行したこともあったようです。

映画館の楽士について見ながら、宮沢賢治の年表を見てみますと、1925年(大正14年)にオルガンの独習を始め、翌年12月に25日間ほど花巻から上京した折、日本交響楽協会の事務局にかよってオルガンのレッスンを受けています。日本交響楽協会は、山田耕筰、近衛秀麿が中心になって設立したオーケストラですが、1926年10月に分裂しました。近衛を指揮者とする多数派は新交響楽団(NHK交響楽団の前々身)を結成、山田をリーダーとする少数派は日本交響楽協会として活動していました。そこで、宮沢賢治の年表が正しいとすると、この日響の方でオルガンのレッスンを受け、「ゴーシュ」に描いているオーケストラの練習の様子を見る機会もあったということなのでしょう。この上京ではセロ(チェロ)も持ってきて、フィンランド公使に個人レッスンを受けたという記録もあります。
それやこれやで、「セロひきのゴーシュ」を書いた時期は、どうやら1927年(昭和2年)ごろと思われます。では、ゴーシュのいた「町」とは、どのようなところでしょうか。

この町の活動写真館にはゴーシュを含む小管弦楽団があり、「今度の町の音楽会」でゴーシュたちの「金星音楽団」が第6交響曲を演奏するために、午後のある時間を活動写真館の「楽屋で円くならんで」練習しています。その指揮をしている楽長が、「音楽を専門にやっているぼくらが、あの金沓鍛冶(かなぐつかじ)だの砂糖屋の丁稚(でっち)なんかの寄り集まりに負けてしまったら」といってハッパをかけるのをみると、競争相手となるようなかなりうまいアマチュアの楽団もあるようです。
こうして、この町にはそうした音楽会があり、公演の場としては「公会堂」のあることがわかってきます。
ゴーシュが住んでいるのは、町はずれの川端にあるこわれた水車小屋です。こういう情景は、この当時なら東京のあちこちでも見られたでしょうが、この町を東京のどこかとは考えにくいところです。この活動写真館は、昼間はゴーシュたちの練習に使われていて、楽長が練習の終わりに、「6時にはかっきりボックスへはいってくれたまえ」といっているところをみると、映画の上映は夜だけのようです。東京の町なかの活動写真館ではありえませんし、中心部からはずれた東京の町という設定も不自然です。
では、宮沢賢治がそのころ住んでいた花巻はどうでしょうか。花巻については調べるゆとりがなく、推察ですが、この当時の花巻に、活動写真館があったとして、「音楽を専門にやっている」数人の合奏団をもっていたとは考えにくいところです。そうすると、もっとも自然なのは、賢治が10年余住んだことのある盛岡市ということになります。
その想定のもとに、盛岡市を訪ねました。目当ては金星音楽団が演奏したこの町の「公会堂」、今も昔のまま建っている岩手県公会堂です。
事前に連絡できず、突然の訪問になってしまいましたが、さいわい催し物もなく、中を見せてもらうことができました。
外観の古めかしさは、アンティークでいいという人もいるでしょうからさておき、響きのよくない定員1000弱のホール、奥行わずか6メートルという舞台など、今なら音楽会に使いたいと思う人はいないでしょう。しかし、当時は晴れがましい場所であったに違いありません。ゴーシュと金星音楽団が演奏したというつもりで見る私には、実在のコンサートを想像して、しばし感慨にふけるのに十分でした。
私がもっとも見たかったのは、実は楽屋でした。宮沢賢治は、こう書いています。

「それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある控室へみんなぱっと顔をほてらしてめいめい楽器をもって、ぞろぞろ舞台から引きあげて来ました。首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。ホールでは拍手の音がまだあらしのように鳴っております。」
このあとゴーシュが楽長とコンサートマスターに押し出されるようにして、アンコールに「インドの虎狩り」を弾くのですが、それについては客席の反応は描かれず、楽屋の仲間たちの評価になっていきます。つまり、賢治は、コンサートについて演奏のできばえや聴衆などを直接描かず、主として楽屋での様子を描いているのです。そこで、私は、楽屋に関心をもったのでした。
実際の公会堂には、舞台下手に付いている数段の階段をおりた横手に小部屋があり、必要な際にはここが楽屋として使われているということを、案内してくれた職員から聞きました。ここならホールの拍手が聞こえてくると実感しました。
岩手県公会堂は、1927年(昭和2年)6月に開館しています。大阪中之島公会堂の1919年、東京墨田公会堂の1926年につづき、1929年の東京日比谷公会堂よりは早くできました。先に推定した「セロひきのゴーシュ」執筆の時期は、賢治が岩手県公会堂で何かを見たり聞いたりした経験が反映されているとするなあらば、さらに範囲をせばめることができるでしょう。
このとき、私はもう一つの施設、盛岡劇場を訪ねました。ここは1913年(大正2年)に開館し、1958年老朽化で取り壊されました。それを惜しんだ地元の人たちの熱意が生き、90年名称を生かした新たな建物として再び開館されました。こうしたいきさつを聞いているうち、話が賢治と岩手県公会堂に及んで、賢治にくわしい職員から「公会堂を建てる話に、賢治は反対しました。あの辺りは立派な木の多い森だったようで、自然破壊に反対という主張でした」という話を聞きました。

「セロひきのゴーシュ」は、宮沢賢治の他の作品と同じく奥行が広く深く、さまざまな示唆を受け取ることができます。動物たちとの交流を通じてゴーシュが音楽をより深く感じ、人間的に成長していくところは、芸術、自然、人間についてじんわりと考えさせながら、メルヘンとしても尽きない魅力があります。ここから賢治の音楽観を読み解いていくことは、多くの人がされていますので、そちらに譲りましょう。私自身は「ゴーシュ」から、今日の「文化のまちづくり」につながるヒントを得たいと思ったのですが、どうもまだ郭公や仔狸や野鼠たちとの交流交感が足りないようです。


私にとっての賢治  宮沢賢治の宇宙