編集日誌 No.102より

 賢治の「グスコーブドリの伝記」は飢饉の話ではじまる。ブドリとネリの兄妹はイーハトーブの大きな森で育ち、父親は名高い木樵だった。
ある夏、7月になって少しも暑さがこず、秋には穀物が稔らず、ほんとうの飢饉になってしまう。父親は大きな樹を街にもっていくが、少しの麦の粉をもって帰るだけで、食べるものが乏しくなり、心配がつのる。やがて、ブドリとネリに少しの食糧を残して、父親も母親も森に入っていって消息をたってしまう。
 「グスコーブドリの伝記」の冒頭のこうした山の民の飢饉の話について、ちょっと変ではないかと、私たちは感じてきた。厳しい自然にさらされた山村で暮らしていくのはたしかに大変なものだが、山の民には自然の恵みを多面的に活用する知恵が伝えられているので、気象の異変に耐えて生きのびていく力は、平地の農村よりかえって強靭なのではないか。いろいろな聞き書きなどを読んで、そんなふうに考えるようになったからだ。

 谷川健一「柳田国男の民俗学」(岩波新書)を読み、柳田国男が書いた「山の人生」の冒頭に記されている美濃の山村で起きた子殺しの事件も、この疑問と通じる問題を含んでいることを知った。柳田が記している話では、妻に先ただれ、二人の子供を育てていた炭焼きを仕事とする男が、食べるのに困って二人の子供を殺してしまう。男が昼寝から目覚めると、夕日がさす時刻で、二人の子供が大きな斧を磨いていて、「おとう、これでわたしたちを殺してくれ」と言う。この悲惨な場面が心に強く焼きつけられる。
 柳田国男は法務局の参事官をしていた時にこの事件の予審調書などを読み、その記憶をもとに「山の人生」の文章を書いたのだという。
 しかし、谷川さんによると、後に、この炭焼きの男、岐阜県明方村(現、明宝村)の新四郎の事件のことが、金子貞二「奥美濃よもやま話 三」に記されていることが知られるようになった。驚いたことに、新四郎が子供を殺してしまった経緯は、「山の人生」と「奥美濃よもやま話」とでは大きく異なっているのだ。
 「奥美濃よもやま話」では、新四郎が子供たちを殺してしまったのは、食べるのに困ったからではない。新四郎の娘は、山と峠をへだてた村に奉公に出ていたが、奉公先の家の嫁が、新四郎の娘と自分の夫の仲を疑うようになり、娘に盗みの濡れ衣を着せる。あらぬ疑いをかけられて、家に帰ってきた娘に、新四郎とその娘の弟が同情して一家心中しようとした、というのが実際の経緯なのだと言う。これが取り調べの調書では、飢餓のため親子心中をはかったという話になったのは、その方が裁判官の同情をかって罪が軽くなると、係官が判断したからではないかという。つまり、山村の貧しさについての通念を前提にして、実際とは違った事件のてんまつが虚構されることになったらしい。

 また、「東北学Vol.4」に掲載されている岡恵介「東北の焼畑---アラキ型をどう読むか」では、昭和はじめの農村恐慌の頃の岩手県北上山地の山村、安家村(現、岩泉町)について書いている。当時の新聞では「娘の身売り」「餓死を待つ」といった見出しで農村恐慌の悲惨さが報道され、こうした脈絡で、山村でドングリを主食にしているということが報じられたという。しかし、安家村では、雑穀や米だけでなく、シタミ(ドングリ)をアク抜きして食糧にするのは、凶作の時の救荒食という訳ではなく、ごく普通のことだった。にもかかわらず、これが、農村の悲惨と短絡して報道されたようだ。
 地元の人たちに、昭和恐慌の時のことを尋ねても、食糧不足で困ったという記憶は出てこないそうだ。岡さんによると、安家村では、気象異変にも耐えられる雑穀の焼畑が養蚕と畜産に組み合わせられていたために、食糧危機への対応力をもっていたのではないかと言う。

 「グスコーブドリの伝記」の冒頭の山の民の飢饉の話にも、当時の社会に流布していた貧しい山村の生活という通念が投影している面があるのではないかと思えるが、どうだろうか。