たがいに浸透しあう「わたくし」と「みんな」

異様に研ぎ澄まされた感覚
 「「春と修羅・序」について」で述べたように、賢治が経験する「世界」つまり「すべて=all」は、「わたくし」と「もの=object」の関係というより、「わたしく」と「みんな=everyone,everything」の関係からなっていて、「みんな」には他の人間だけでなく、さまざまな主体が含まれる。といっても、なにが主体かが問題だが、賢治の感性は、かなり幅広い存在を「意思をもつ主体」として感じる特徴をもっている。
「春と修羅」の心象スケッチには、「わたくし」と「みんな」の関係のさまざまな様相が描かれているが、特徴的なもののひとつは、「風景やみんな」が帯電したような生々しい感じになり、感覚が研ぎ澄まされて、風景の微細な部分が際だって見えるように感じる特異な意識状態である。こういう時には、「わたくし」と「風景やみんな」の隔たりが小さくなり、たがいに融けあい、浸透しあうような感じになる。
欠けた月を雲が走る光景  「春と修羅・第1集」では、欠けた月を雲が走るといった光景の時にこうした「心の現象」がしばしば起きている。たとえば、「風の偏倚」という詩では、「五日の月」の晩の心象がつぎのように記録されている。
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
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(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
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じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
このように感覚が鋭敏になり、光景の細部が異様に鮮明に見える時には、時間の感覚もいつもと違って、「巨大な過去」の時間に迷いこんだ具合になる。そして、こういう時には、「わたくし」や「みんな」「すべて=世界」の始源を感じとれるような思いになる。(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)というのは、そういう感じ方を示している。
森に感じる殺意  そして、このように「わたくし」と「みんな」の間の隔たりが小さくなくなるとともに、周囲のいろんな存在が意思をもって「わたくし」に働きかけてくると感じる傾向も強まるようだ。「風景とオルゴール」では、「なんといふこのなつかしさの湧きあがり」の後は次のような展開になる。
なんといふこのなつかしさの湧きあがり
水はおとなしい膠朧体だし
わたくしはこんな過透明な景色のなかに
松倉山や五間森荒つぽい石英安山岩(デサイト)の岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
森の中から「わたくし」に対する殺意を感じ、それは「わたくし」が森の木を切ったために恨みを抱いているからだと思っている。そして、「わたくし」と「みんな」が融け合うような「なつかしさ」を感じている今、森の木に暗殺されてもいいという、寛大な気持ちになっている。
巨きなあやしい生物としての月  半月を雲がよぎるような光景の晩に、賢治がしばしばこのように「わたくし」と「みんな」が融け合うような特異な意識状態を経験することが多かったのは、月が賢治に とって特別な存在だったことと結びついているのだろう。
「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」では賢治は月に対して「あなた」と呼びかけつぎのように語る。
しかもあなたが一つのかんばしい意思であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
このように、賢治は月を単なる物理的な客体として感じるのではなく、意思をもった主体、つまり「みんな」のなかのある者として感じることがあり、そういう時には、「わたくし」と「みんな」の隔たりがなくなり、また「風の偏倚」や「風景とオルゴール」の場合のように、視角や嗅覚が異様に鋭敏になり、世界の始源を感じとれるような気持ちになるらしい。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 1〜『春と修羅』」より

モナド的な微塵の感覚と華厳経


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