モナド的な微塵の感覚と華厳経

賢治の特異な意識状態と仏教行者の瞑想
 「風の偏倚」や「風景とオルゴール」の特異な意識状態の記録は、賢治の資質と大乗仏教への信仰の関係を考える上でも、示唆に富んでいる。
賢治が大乗仏教に強く惹かれるようになったのは、こうした特異な意識状態において賢治が経験した世界についての感じ方が、大乗仏教の経典に描かれている深い瞑想的な意識を通じて得られたイメージや洞察と通じるところが大だったためではないか。大乗仏教によって伝えられた哲学的な洞察に接することで、賢治は自分が経験する特異な意識状態を先達の思惟の伝統に結びつける通路を発見したのではないか。そういう仮説にもとづいて考えると、賢治と大乗仏教の関係がよくわかってきそうだ。
賢治の感覚と華厳経の微細な粒子  賢治が経験した特異な感覚と大乗仏教の哲学の結びつきのひとつは、現象のうちに微細な粒子の動きを異様に鮮明に感じ、そこに始源的なものを見る感じ方と華厳教の微塵(微細な粒子)のうちに世界全体が含まれるというイメージのつながりだ。

「たがいに浸透しあう「わたくし」と「みんな」」の項で述べたように、半月を雲がよぎり、雲の中が月の光に照らし出されるような晩の、感覚が異様に研ぎ澄まされた特異な意識状態の記録には、細かい粒子の動きが鋭敏に捉えられている。

「風景とオルゴール」では、

 ((ああ お月さまが出てゐます))
ほんたうに鋭い秋の粉や
玻璃末(はりまつ)の雲の稜に磨かれて
紫磨銀彩(しまぎんさい)に尖つて光る六日の月
橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる
なんといふこのなつかしさの湧きあがり
といったように、「秋の粉」、「玻璃末(はりまつ)」(ガラスの粉末)というように、雲の細かい粒子が光をうけて輝く様子が微細に感じとられている。

さらに、「青森挽歌 三」では、「おもてが軟玉と銀のモナド/半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから/巻積雲のはらわたまで/月のあかりは浸みわたり」といった具合に、やはり、半月のひかりに照らされて、細かい粒子が輝く光景の時には、「つめたい窓の硝子から/あけがた近くの苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る。」というように、輝く粒子の流れが「苹果の匂」という嗅覚を喚起する。(比喩でそう言っているのではなく、賢治の場合は、こういう状況の時に、実際に匂がしてくるようだ。)

「風の偏倚」は、「風景とオルゴール」と同じ日付をもっているので、同じ晩の心象を違った形で記録したものだと言えるが、「意識のやうに移つていくちぎれた蛋白彩の雲/月の尖端をかすめて過ぎれば」という上と同じような光景のところで

(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
という括弧つきの文が挿入されている。

「風の偏倚」や「風景とオルゴール」のように、半月を雲がよぎり、意識が異様に研ぎ澄まされるような晩には、流れていく雲の粒子の動きが微細に感じられ、あらゆる世界の根源となっている因子を感知できそうな気持ちになっている訳だ。

賢治のモナド的な感覚と華厳教の関係  賢治が経験する特異な意識状態の時に現れる、こうした世界を構成する根源的な因子を感知できるという感じ方は、華厳経に繰り返して説かれている微細な粒子の中に世界全体が含まれているという認識と近しい関係にある。
こうした意識状態の記録と華厳教をはじめとする大乗仏教の哲学の関係について、(A)賢治が大乗仏教に心酔したために、その哲理について啓蒙するために詩のなかにこうした華厳教的なイメージを描いているという解釈と、(B)賢治は大乗仏教について深く知る前からこうした特異な意識状態を経験することがあり、こうした感覚と通じ合う所の大きい華厳教をはじめとする大乗仏教の哲学に強く惹かれたという解釈がありうる。
私たちは、賢治の時期ごとの作品を読んでみれば、(B)の因果関係に重点をおく理解が説得的なことが明らかになると考えている。

華厳経の微細な粒子の中に世界全体が含まれているという世界認識は、仏教の行者の深い瞑想的な意識から生まれたものだが、賢治が経験した特異な意識状態もそれと似た点をもったのだと思われる。こうした自身の意識経験との接点があったために、賢治は華厳教やそれと共通する哲理を含む大乗仏典を読んだ時にその世界に強く惹きつけられたのだと思われる。そして、大乗仏典を読むことで、賢治は自分の特異な感じ方に、仏教の求道者の思惟の積み重なりとの関係で、位置づけを与えることができるようになったのだろう。

モナド的な感覚と「透明な」感じ  「たがいに浸透しあう「わたくし」と「みんな」」の項で、「風の偏倚」や「風景とオルゴール」では、研ぎ澄まされた特異な意識状態の下で、「わたくし」と「みんな 」の間の隔たりが小さくなって、たがいに融け合うような関係が生まれていることを指摘したが、こうした「わたくし」と「みんな」の相互浸透や世界を構成する根源的な因子を感じとれるかのような高揚した意識状態は、賢治のいう「透明な」感じとも結びついている。
「種山ケ原」の先駆形の「種山と種山ケ原」には、つぎのような部分がある。
  あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
 水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
この詩では、「わたくし」と水や光や風といった「みんな」が同じ因子で組成されるとともに、「わたくし」が「みんな」の一部分であり、水や光や風「ぜんたい」が「わたくし」だといった、「わたくし」と「みんな」との互いに浸透しあう関係が描かれている。賢治の感じる「透明さ」は、こうした「わたくし」と「みんな」の相互浸透の感じをともなっていると考えていいだろう。
こうした「わたくし」と「みんな」の相互浸透をともなう「透明さ」や根源的な因子を感じとれるかのような意識状態は、「銀河鉄道の夜」で綿密な形で展開されることになる。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 1〜『春と修羅』」より

「始源的な時間」の感覚と法華経


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