「始源的な時間」の感覚と法華経

研ぎ澄まされた感覚と「始源的な時間」
 賢治が経験した特異な意識状態と大乗仏教の哲理の結びつきで、もうひとつの重要な点は、「始源的な時間」の意識と法華経の久遠の仏という考え方のつながりだ。

「風の偏倚」や「風景とオルゴール」に記録された特異な意識状態のもとでは、「始源的な時間」とでもいえそうな時間の感じ方になる。「風の偏倚」では冒頭ににつぎの部分がある。

風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山陵や
  (虚空は古めかしい月汞(げっこう)にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんな錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
また、「風の偏倚」と同じ日付をもつ「風景とオルゴール」には、月の光に雲の微粒子が照らし出される光景のところに、「なんといふこのなつかしさの湧きあがり」という表現が出てきて、これが「風の偏倚」の「すきとほつて巨大な過去になる」という部分に対応している。
意識が澄みわたり、「わたくし」と「みんな」がたがいに浸透しあうような気分のもとで、時間の感覚もいつもと違い、過去、現在、未来が未分化で浸透しあう感じになり、「なつかしさ」が湧きあがり、他方で混沌とした状況の「恐ろしさ」をも感じる。
「風景とオルゴール」の終わりに近い部分には、「風がもうこれつきり吹けば/まさしく吹いて来る劫(カルパ)のはじめの風」という表現も出てくる。劫(こう)(カルパはサンスクリット語)は、仏教における時間の最大の単位で、無限・永遠の時間だといい、「劫のはじめ」つまり「劫初」とは宇宙の生成の時代を意味する(「宮沢賢治語彙辞典」)から、こうした点からみても、「風の偏倚」や「風景とオルゴール」の意識状態は「始源的な時間」の感覚をともなっていると言える。
賢治の「始源的な時間」感覚と法華経信仰の関係  こうした「始源的な時間」の感覚は法華経の久遠の仏という哲理につながる性格をもっている。釈迦が80歳で入滅したというのは衆生に教えを説くための方便で、ほんとうは、仏は成仏してからはかりしれない久遠の時間がたっていて、仏は大宇宙に時間を超えて常住している。そして仏はさまざまな形の仏としてこの世に現れて、教えを説くのだというのが法華経に特徴的な点のひとつだが、こうした哲理は、「始源的な時間」の感覚に根ざすものだと思われる。

賢治が親友の保阪嘉内に書いた手紙の中のつぎのような箇所を見ると、賢治の法華経信仰が、彼自身が経験する特異な時間感覚と深く結びついているのは明らかだ。

私は前の手紙に楷書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大千世界が過去現在未来にわたって生きてゐるのです。(9巻-120)
この手紙から、一瞬の間に「過去現在未来にわたる」「数知らぬ世界」が現われ消滅するという「始源的な時間」の感覚に通じる感じ方が、賢治の法華経信仰と不可分の関係にあることがうかがわれる。

「モナド的な微塵の感覚と華厳経」の項で述べた賢治の特異な意識経験と華厳経の関係の場合のように、賢治の作品に描かれた「始源的な時間」感覚の経験と久遠の仏の教えとの結びつき方について、(A)賢治は法華経を通じて「始源的な時間」感覚を知り、法華経の啓蒙のためにそれを作品の中に書いたという考え方と、(B)賢治は法華経についてよく知る前から、「始源的な時間」感覚を経験することがあり、そのために、通じ合う点の多い法華経の久遠の仏の教えに強く惹かれたという考え方とがありうる。私たちは、華厳経の場合と同様、(B)の考え方が説得的だと考える。

多様な認識の秩序を包括する視点と「始源的な時間」感覚  「春と修羅・序」で、別項でも触れたように、感覚や認識を秩序だてる視点や枠組みの多彩さのひとつの側面として、「時間」と「記録や歴史 あるいは地史」の認識の 関係を賢治は問題にしている。
ある時代の歴史や地史は、その時代の人々が共有している解釈の枠組みによって「論料(データ)」を解釈したものであるため、時代が変わって共有の解釈の枠組みが変わると、認識が大きく変わってしまうのだ。賢治は、こうした多様な捉え方をふくみ込む包括的な視点を探究しようとしたが、その手がかりのひとつが、彼が経験する「始源的な時間」の感覚にあると考えていたようだ。

「春と修羅・序」に描かれた、転変する「記録や歴史 あるいは地史」の認識の問題に対応する場面が「銀河鉄道の夜」の第三次稿にも出てくる。銀河鉄道の旅の最後にカムパネルラがいなくなってしまって、とり残されたジョバンニのところに現れた黒い大きな帽子の大人が奇妙な歴史と地理の本を見せる場面だ。この本にはひとつのページにひとつの時代の歴史と地理の見方、考え方が書かれていて、ページをめくると、その考え方がどんどん変わってしまうのがわかる。そして、この大人は「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。」とジョバンニに語りかける。つまり、お のおの時代の歴史認識という「きれぎれの考」を包み込む時間感覚に到達する必要があると、この人物は言おうとしているようだ。
この場面からも、賢治が自ら経験した「始源的な時間」感覚を通じて、各時代ごとに変化する感覚や認識の枠組みを包み込む視点への道を拓こうとしているのが、うかがえる。

ちくま文庫「宮沢賢治全集 1〜『春と修羅』」より

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