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「松井隼さんの思い出」の原稿は、記念館運営委員会にメールでお送りください。

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Sat, 18 Dec 2021  豊島義博
検索でこのページに出会いました。松井さんとは、90年代に有楽町交通会館地下の歩味というスナックで飲み仲間としておつきあいさせていただきました。生命保険会社の診療所勤務でしたが、研究職でもあったので、生命論や雑学的な自然科学の話をよくした記憶があります。私の蔵書数冊をお渡ししたままになっているのですが、それも良き思いでです。1953生まれの私にとっては良き先輩でした。今でも、彼の髭をいじりながら語る口調が脳裏に残っています。



Thu, 7 Jun 2012  石井忠司
東大の卒業生(昭和48年入学)です。「セツルメント」について調べていてこのページが見つかり、訪問しました。偉大な先輩がいたことを知りました。私はエンジニアですが、広告媒体の到達確率モデルについては、一見文科系と思われる分野でも数学が使われていることを知って、数学の重要性を再認識しました。



Mon, 3 Oct 2011  匿名
2011年7月11日。浜松に恒例のお墓参り。神戸の震災に触れた故人の文献を読み直し。改めて松井さんの先見性に驚かされた。
最後に新宿で飲んだ時、興味あることの一つにNPOがあった。その時はその意味を僕は全く分からなかった。その自分が10年のNPO活動を手探りで続け尚かつ墓前でライフワークと決意したのだから、松井隼はやはり生涯の師匠である。不肖であることは認めつつここに残された論文を独学しながら志を継承していきたい。



Sun, 3 Aug 2008  八幡弘之
松井氏はぴあの羅針盤であったと同時に私個人にとってもキャプテンでした。
最近になって、生きていてくれたら相談できるのにと思う日々から、「自分で考えた事が答えですよ」とグラスを傾けながら優しい笑顔で話しかけてくださる松井さんの顔が思い浮かべれるようになりました。今月、ぴあ時代の仲間とお墓参りに行こうと話しております。



Wed, February 20, 2008  木ノ下
東條さん
木ノ下です

ご無沙汰です。
しばし感慨にふける時間をいただき、ありがとう。
駒場寮のところだけを拾い読みしました。
「されど我らが日々」、「青春の蹉跌」、「遅れてきた青年」、「見る前に跳べ」・・・・・
安保残党がたむろする人間疎外、実存主義の時代でした。

わたしは駒場寮の「中研」にいました。セツルメントと直接は関係なかったですが、 「中研」の部屋(6人部屋だった!)に出入りしていたのが、平田さん(小柄で額が広くて光っていた人ですよね)や、川西(河西だったようなうろ覚え、いつも薄汚れた服をきていた) でした。

MELT(マルクス、エンゲルス、レーニン、トロッキー)の中島さんの演説のカッコ良さ歯切れ良さ!

松井さんは存じ上げませんが、どこかですれ違ったかもしれません。
 合掌



Wed, February 20, 2008  山田
東條さん、山田です
松井さんに直接お会いしたのかどうか覚えがないのですが、電子図書館の説明で東條さんのアレンジで、会社の方に一度お話をうかがったことがあり、 多分お目にかかったのだと思います。ます。その時にはマーケティングがひどい、という印象でしたが、その奥にここにあるような思想の持ち主がおられたとはしりませんでした。それを読むと、強い主張をしながら、自分を相対化していた方、とお見受けします。会議のときにも、権威主義的な雰囲気はまったくなかった強い印象で、彼のこの思想にはきずきませんでした。その彼とここまで付き合われるというのは東條さんらしいのですが、もしかしたたら東條さんも彼を同じ思想信条で、彼より少し(大分)柄が悪いだけなのだ、と腑に落ちます。

いくつか気に入った彼のメモを

▼主体性〜クリエィティビティとイデオロギー
自分自身のイデオロギー形成
自分自身が自分の体験によって検証してゆくための作業仮説として自分のイデオロギーをもたねばならない〜いや、皆、どこかでそうしている。そのことを露にし、主体化すること、自覚的な行為をすること
(カード)

▼世界観
社会人は自己の職業が取り敢えず要求してくる狭い範囲の勉強や訓練をうけるだけではなく、幅広く遊ばなければならない。その遊びを通じておとなしく言えば社会常識を養うのであり、大袈裟に言えば世界観を形成するのである。
(文化の産業論的研究(上)/1 文化〜商品経済の論理からはみ出してゆく部分/ロ、労働力の再生産/2 中長期的再生産)

▼コミュニカビリティ(comunicability)=コミュニケーション可能性
どのようにしたら人と人のコミョニケーションは可能になるのか。----メディア変換を行い出力する能力をもっていることがコミュニケーションの第一の条件である。---第二の条件は表現する意志である。-----第三の条件は実際にコミュニケーションがしばしば成功するということである。
(ワープロ原稿)

RealityはCommunicability の基盤である-----On the Spot Communication は実像の共有によって成立するRealityである。個別性、具体性、身体性が備わっ ている。
(「1996年ノート」)

▼コミュニケーションの能力と異文化交流
 自分と異なる他者の存在をしっかりと認めその様な他者とのコミュニケーションを確保してゆくことが本来のコミュニケーションの役割である。
 であるならば文化の本質の中に異文化とのコミュニケーションの能力が含まれていなければならないことになる。
(文化の産業論的研究(上)/1 文化〜商品経済の論理からはみ出してゆく部分/ホ  文化・コミュニケーション・異文化)



Wed, February 20, 2008  山本哲男
創業間もない2000年6月、東京エンジェルスでお会いしました。 新宿南口のビル最上階ロフトにあった東京エンジェルスの事務所には何回か訪問いたしました。
つたないプレゼンでしたが松井社長は親切に対応していただきました。 結果的には投資していただけませんでしたが印象に残っております。



Wed, February 20, 2008  みつだ
東條さん
松井さんと東條さんの関係を始めて知りました。 さぞかし,2人の格闘は凄かったと想像いたします。 でも死者に鞭打たず立派です。
松井さんがピアの創始者と思い込み東京エンジェルズに出資依頼に数理技研の建物に赴いて話をしたのが、私が松井さんに話できた最初で最後のような気もします。 穏やかに判断を急がない姿勢を印象に残しています。
後で分かったのですが松井さんはピアの創立期の混乱収拾後にピアに入社されたようです。
どこかでは会っているのでしょうが松井さんとは何時もすれ違い立ったようです。
そういえば川崎セツルメントで松井さんと東條さんが仲間だったとは驚きです。ゴッド(神林さん)も同じ仲間だったようで世間は狭いものです。川崎セツルメントも私が知ったのは凄惨なゼネ石闘争の真っ最中だったと気がします。 噂には聞いておりましたが東條さんが川崎セツルメントに所属していたなどとは。 そしてニ人三脚で東京メタリック通信などICTの荒波を泳いで居られたなどとは露も 知りませんでした。
松井さんがイニューの後始末をされたとは聞いておりましたが松井さんの著作権に対する思い、改めて敬服します。あのシステムが早すぎて世に出なかったのかオープンソースの時代こそあのシステムの進化が発揮できるのか、それをライフワークにして居た元イニューの社長にも聞いてみたいところです。
松井さんの死は東大の安保世代の一翼が崩れたとの正直な実感です。
今でも私の心の奥にも彼に慎重な判断力が染み付いたままです。
合掌



Sun, 17 Feb 2008  高橋 徹
松井さんが年下で、トロツキストに関心があるとは知りませんでした。もっと話をすべきだった。悔やまれてなりません。



Tue, 12 Feb 2008  木俣 歩
松井氏とは松井事務所時代にご一緒させていただいており、 こちらのサイトの開設について澤田氏より教えていただきました。

当時はたわいない雑談をつまみに、 晩酌のご相伴に預かる日々でしたが、あらためて松井さんの思想や軌跡にふれて、 ご存命の頃にもっと色々な話をしておけばよかったと、悔やまれてなりません。

さて、大変恐縮なのですが、トップページの直筆の松井さんの日記の一遍が、 インターネットの画面上では少し見えづらいのが残念です。いま少し見えやすくなるととてもうれしく思います。
ご対応につきまして検討いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp