*
松井隼さんの思い出駒場寮・川崎
■ 駒場寮・川崎
*中村 敦
■ ビデオリサーチ
■ ぴあ
■ NTT・劇団四季顧問
■ ぴあ総研・文化科学研究所
■ 松井事務所以降

松井君の思い出(東大駒場寮時代)

2007年11月25日 中村 敦

 松井隼君とは東大駒場寮の川崎セツルメントの部屋で約1年半同室しました。時期は1961年(S36年)秋から1963年(S38年)3月までになります。
 私は駒場寮入居当初は別の部屋にいたのですが、津脇さんという川崎在住の労働運動の指導者を通して跡部君との出会いがあり、跡部君の引っ張りで9月ごろ川崎セツルメントの部屋に移りました。
 当時駒場寮は60年安保の翌年ということでもあり、寮全体が騒然としていました。3つ並んだ寮棟の間で夜間シュプレッヒコールが飛び交うという調子でした。
 川崎セツルメントの部屋にいたのは(時期が前後して出たり入ったりしていたので各メンバー同士が同時期に同室していたかの記憶は定かではありませんが)松井、跡部、幸田、木村、江橋などのメンバーです。
 川崎セツルメントといっても私が入った頃は実際に川崎に出向いている人は跡部君を除いて、ほとんどいなかったように思います。
 駒場の学友会の中に川崎セツルメントの部屋があって寮のメンバーのほか権藤、原君、衛生看護学校の人たちのほか共産党系の大川、平田、堀江、川西、宮本、福家といった人たちが出入りしていました。 松井君はその頃は東大細胞からは離れて新左翼の理論勉強をしている時期だったかと思います。ヘーゲルの大論理学に取り組み、同時に黒田寛一、悌明秀などを読んでいました。
 彼の亡き後、彼の駒場時代のノートを見せてもらいましたが、独特の右斜めに傾いた筆跡でよくノートに書き込んでいました。
 私自身は松井君と直接意見を交わしたり、議論したりしたという記憶はあまりありません。何かすごいやつだという周囲の人が言うのをそのまま受けて、どちらかというと一段高いところにいる人を一歩引いて見ているという感じでした。すごいという意味の1例として当時跡部君が「自分たちがある地点の観点に達したとき、松井君はすでにさらにその先に進んでいるんだ」と言っていたことを思い出します。
 もっとも一緒の部屋にいるわけで、時々夕食を食べたりします。そういう折、彼は彼なりの知性の発するままにぽろっと何かを発言します。彼としては何気なく言っているだけのことなんだろうけれど、彼が発した一言がそのとき自分の気にしていることに触っていて、その後しばらく私の中にのしかかって悩んだというようなことを思い出します。
 川崎セツルメントには当時いくつかの部があって(名前は正確には思い出せないが、労働文化、学習サークル、医療など)川崎市古市場を拠点に活動していました。そこで出会った人たちはもっぱら共産党系の人たちでした。古市場のセツルハウスに常駐していたのは川西さんという1年先輩、川西さんの前の常駐者だった平田さん、東電汐田火力の労働者の人たちなど。
 セツルメントの中の部が違ったせいもあるかもしれないが、寮の同室の面々と川崎で行動を共にする機会は殆どなかったように思います。跡部君は別の部で川崎に頻繁に来ていたようでした。
 第4インターとの関わりの経過については最近中島君に聞かされ、また跡部君が書いた松井君メモワールを読むまでは知らなかったのですが、第4インターの京都での学習会には私も参加しました。このときのメンバーでMELT同盟がつくられ、駒場自治会選挙に臨んだわけです。
 このとき頻繁に開いた作戦会議のメンバーは私の記憶の範囲では松井、中島、跡部、原、前坂、私といったところでした。私自身はこの団体の思想に共鳴してというより、寮の同室者であるため、誘われて参加していたという程度でした。
 この集まりの様子ですが、前坂君がキャップということでしたが、自宅通学だったせいもあって、会合には必ずしも毎回出席していなかったように思います。集まりのなかでも発言はしていたようですがあまり印象には残っていません。
 集まりでのパターンは中島君が状況分析からどうすべきかというところまで、主導的に論点を展開し、これを跡部君あたりが補足する、他のメンバーは主に聞き役という進行だったと思います。他のメンバーも発言していたかもしれないが、中島君が喋っている情景だけが妙に強く印象に残っています。松井君は説を展開するのではなく、一言二言口を挟むような発言の仕方だったと思います。
 自治会委員長選挙は当時各派4分5裂状態でそのときは8名くらい立候補していたと思います。駒場寮前での演説会で、中島君が展開した論説は私が聞いていても迫力があり、そこに集まって聞いていた学生たちにも説得力を持ったと感じました。そういうこともあって、結果は知名度に勝る江田五月、横路孝弘組が委員長選を取ったのですが、MELT陣営もかなり善戦したわけです。
 これについての総括文を跡部君が書きました。このとき3日連続徹夜で書いているのを見て、その気力とエネルギーに吃驚したものです。跡部君のこの行動パターンは64歳を過ぎた今でも変っていないようですが。この総括文は跡部君の友人が京大で発行していた雑誌に掲載されました。
 少し時間がたってからですが、この総括文についてある会合の中でポツリと一言、松井君が「あれも今では少し見直さなきゃいかんな」と発言したのを不思議によく覚えています。
 どう直すなどというのではなく文字通りワンフレーズです。こうした会合で彼が長弁舌を打つというのは記憶にある限りなかったように思います。
 それから間なしに共産党からの指示によって何人かのメンバーを川崎セツルメントから除名するということが起きました。除名と名指しされたのは松井、跡部、江橋、前坂、権藤の5人ではなかったかと思います。駒場寮の会議室で行われた糾弾の場に、先方は平田(出席?)、堀江、川西、宮田といったメンバーが出ていたと思います。先に書いたように私は当時どちらかというと彼らの方に親しくさせてもらっていたので、大いに戸惑いました。
 平田氏は川西氏の前任者として古市場のセツルハウスに長く常駐し、すでにそのころ大学8年生近くになっていたと思います。温厚な人でどこのおっさんだろうという風貌で、私にはずいぶん優しくしてくれました。大学卒業後彼から声がかかって一度大手町の農林中金の1階の一室で会う機会がありました。農林中金の広報関係のことをやっていました。そのときよれよれのジャケットとジーパンという姿で、正規の職員にはなっていないなという感じでした。その後どうしているか判りません。堀江氏は私らより2学年ほど先輩で、私が彼の下宿に出入りしていた頃はロシア語と「スミルノフの数学」という有名な数学教科書の勉強をしていました。下宿に同宿していたのは宮本氏でした。堀江氏のロシア語の勉強が始まると彼は独特の甲高い声で音読を始めるのでみな苦笑していました。堀江氏は後に東大の教授になったと聞いています。宮本氏(私らより1年先輩)は非常にナイーブな神経の持ち主で、たわいもないことに感動したりで、親しみの持てる人でした。彼についてはその後の消息はわかりません。川西氏(同じく1年先輩)はギターが好きな青年でセツルハウスに行ったときなどよく世話になった人ですが、彼についてはどちらかというと少し暗い性格の人という印象を持っています。三菱キャタピラに就職し、その後同会社の取締役にまでなったと聞いています。隠れ党員を通したのかその辺はわかりません。
 除名問題をめぐる糾弾会議のしばらく後、私はいつもと同じ調子で彼らの下宿(当時蒲田駅から北に10分くらい歩いたところにありました)に遊びに行ったことがあります。私もMELT同盟と共産党とはどんな関係にあるのか知らないわけではなかったのですが、それと親しい付き合いとは別だろうと軽い気持ちで行きました。そのときはたまたま堀江、宮本、川西の3名がそろっていたのですが、いかにも何しに来た、というような応対をされ、ここはもはや私が出入りする場ではないと悟った次第です。3人そろっていたのはたまたま何かの作戦会議をやっている最中のせいだったかも知れません。
 駒場寮には2年間しか居れないので、そこを出てそれぞれ下宿探しになりました。私はまた跡部君の誘いを受けて、川崎市東渡田にある白栄荘というアパートに彼と一緒に下宿しました。
 松井君は正確な年月は覚えていませんが、住友ベークライトの労働者として働きに出ました(跡部君のメモワールには日発となっていますが、私の記憶では住友ベークライトだったと思います)。そのとき感じたのは、松井君は世の既成価値観念(たとえばエリートはエリートらしくなどという)からはかなり自由に発想し、しかもフットワークよく行動できる人だなということでした。ただ処世については相当に無頓着なところがあると感じたのは、教養学部からの進学に当たっては見かねた人のフォローがあってやっと文学部にすべり込めたと聞いたときでした。これは本人に直接確かめたわけではないので真偽のほどはわかりません。
 ずっと後年、栄養失調で瀕死の状態になっているのに、本人はさほど頓着していなくて、これもそれを見かねた人が無理に入院させたという話を聞いたとき、上の話と重なっていかにも松井君らしいと感じました。
 松井君はその後、川崎駅の近くに中村貢吾さんという川崎の労働運動の指導者の家に竹川君と一緒に下宿しました。当時白栄荘には跡部君と小沢君(後から同宿してきました)と私と3人で住んでいました。ある夜12時過ぎた頃、小沢君と私とが部屋にいたのですが、綿貫公代さんが突然訪ねてきました。聞くと今日浜松を発ってここに来たそうです。これから松井さんのいるところへ連れて行ってほしいということでした。事前約束なしにやってきた様子でした。深夜なので電車もなく小沢君が彼女を連れて徒歩30分の松井君のところにつれていきました。私らなりの青春時代の一コマでした。
 囲碁についての話。松井、跡部、私の3人は駒場寮の中で同時に囲碁のルールを教わりました。講師は幸田君(私らの1年先輩)です。幸田君は当時すでに有段者だったと聞いています。他に前坂君も有段の腕前でした。やり方を覚えてからごく短期間に(2,3ヶ月くらい)松井君はするすると上達しました。一方跡部君はこんなものは時間の無駄だという観念が強く(私に向かってもいつもそれを言っていました)、そこそこの腕に止まりました。
 その後白栄荘でも時間の無駄だと言いながらも2人して、もう1局もう1局と、つい夜中まで打ち続けることもありました。小沢君がいつごろ覚えたかは、直接聞いていませんが、確かこのころだと思います。私はその後の精進が足りなったせいもあって結局級位レベルに止まったままです。
 後に前坂君死去の追悼囲碁大会と追悼集会というのが催されて、行って見ると幸田君、松井君は5段、小沢君は2段を名乗っていました。その後もこの3人に神林氏が加わって時々手合わせをやったそうですが(そのときは小沢君も5段だったそうです)、1番強いのは松井君だったとのことです。
 取りとめのないはなしになりましたが、終わります。

松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp