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松井隼さんの旅
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「沖縄紀行」 1986年のノート

9/19

 PM 4゜30' 那覇東急ホテルにて
羽田から順調に飛行機は飛んで那覇に着いた。
伊豆七島を見た他はずっと海ばかりであった。
沖縄本島の東側をとんで空港に入る。
空港の外の空気はしめっぽくあたたかい。
颱風はまだ南に居すわっているらしい。
タクシーの運転手の話では、今晩から明日が荒れるとのこと。あさって予定の久高島への船便は欠航の可能性がある。
糸満のつなひき大会があさってという。
はやくもスケジュール変更か。

西田氏の計画で(財)沖縄地域科学研究所の真栄城守定理事長と会う。善人であることは疑いを入れぬが、正体不明。(地域計画研究所 田島氏、宇津見氏同席)
沖縄流というのであろうか、時間がとめどもなく消費され、身体のリズムがあわない。

沖縄料理を「苗」で食べる。美味しい。
事前にきいていた沖縄料理に関する悪評はすべて誤解にもとづいているのであろう。
「苗」の主人のギターと唄。

全員そろってJ&J(ライブスポット)へ。Vocal がJ&J、うまい。
しかし沖縄の第一夜がロックライブで始まるとは想定外である。

屈折した歴史の沖縄

9/20

 8°30′起床

 9°30′に大橋さんの旧友(大学同期生)である金近さんと会う。
30代前半であろう。痩型。美人といってよいであろう。彼女と喫茶店で話し、更に彼女のコンミューンを訪問し話す。那覇にキナショウキチの率いるグループ「セレブレーション」があり、彼らは泊港に近い墓地の側らに小さな土地を借りてコンミューンをつくっている。共同の家屋一棟及びテントが数カ所設営されている。彼らは音楽活動を行う集団であると同時に、バグワンラジニーシの教えを信奉し、共同でメディテーションを行っている。24名が共同生活。子供もおり、犬もいる。
彼女はジュニアタイムスの編集長の仕事を昼間もち、その収入をコンミューンに入れているのであろう。コミューンの財布は一つだという。
音楽活動グループとしてみた場合、結束の堅い劇団活動に近いであろう。
経済単位としてみた場合は、イエスの箱舟のように社会、特に家族という形態からとびだした、新しい結束ということもできようが、家族というものが持つ長い歴史とそこでつくられた様々なルールという規範をもっていない。彼らは家族の規範を排除し、宗教的信条をよりどころに現実的なルールをつくろうとしているにちがいない。骨のおれる作業であり、実験である。収入は彼らとて社会との交渉によって獲得しなければならず、従って、このコンミューンを擬制的に新しくつくられた大家族と考えれば、社会とのかかわり方については既制の概念の中にくくられてしまうが、男と女の関係、子供の問題、etc. は、どうしてもそこからはみだす部分をもとう。
このコミューンについては、今後も観察をつづけなければならない。それは解体するであろうが、持続の力及び解体の契機等すべてが私のテーマにとって重要なデータとなる筈だ。

 12°00′-2°00′ 崇元寺を見学のあと、那覇市中央の繁華街である国際通り及びそれに隣接したマーケット平和通りを歩く。

 2°00′ 沖縄テレビの社屋内に西田氏を訪問し、彼の運転する車で読谷村の共同事業所を訪れ、玉元氏及び当山氏(読谷村役場で経済担当)がちょうどかま出しし終えた所を訪れる。焼き物に全く興味がないわけではないが、知識が皆無に近いため、きのきいた質問も、ほめ言葉も発せられない。
読谷村は米軍基地の縮少によってもと不発弾処理場であった広大な土地を返還された。その有効活用が村としての重要な政策課題となっている。
この間観光開発は避けて、独自の経済開発を目指してきたが、共同窯業場をつくり焼き物を村の物産にしようというのもその一つである。
しかし、土地返還にともなう基地使用料収入の消滅を補う新産業をつくることには成功していない。
15年間同じ村長が指導してきたというが、村長の実力と多分返還された土地に村有地が多かったということが背景にあったのではないかと推察する。
村の収入が減り、村民の収入も減って、それを新しいビジネスでいつまでもカバーできないとあれば、いつか新しい方針にかわられるであろう。
当山氏はくやしそうに観光開発はしたくないといっていたが、既に村は海岸へのリゾートホテルの建設を認めるところまできている。

当山氏の案内で座喜味の城跡を見学する。美しく復元されていた。イベント会場にもなりうる。

玉元氏の作業場で鉄板焼パーティ。いろいろな人が出入りする。開放的ですばらしいパーティだ。
焼酎をたっぷりのみ、肉、野菜、焼そばをたっぷり食べ、酔うにつれ興じ、やがて酩酊しねてしまった。沖縄の歴史・言語等がテーマであった。
「おもしろそうし」という資料が残されており、これは大和の古事記に該当するものであるという。

9/21

那覇バスセンターで西田氏と落会い、馬天港へのバスに乗って向う。目的地は馬天港から船便でゆく久高島である。昨夜のアルコールの残りがきいていて、馬天港までさしたる観察なし。
久しぶりに海の上を船に乗った。20人ぐらいの同乗客。船からみえる右手の岬の上の山々のいずれかが斎場御獄であろうが、教える人もいず、問いただすこともせず、多分あの峯であろうと一人で思い定めた。
久高港には1時間で着く。
民宿ニライ荘に入る。

珊瑚しょうの海。
まず金近さんの教えてくれた食堂アランパをたずねる。灯台の下、漁港の横、知念半島を正面にみる海岸にアランパはあった。主人の西銘さんは金近さんのいうとおりチョンマゲを結っていた。サカヤキをそっているわけではないので、琉球風チョンマゲというべきか。金近さんとの関係がよく理解できていないので、ただ食堂の客という形で話しかけたが、すでにシーズンも終り、客を期待していないのでこの食堂は出すべきものがまったくないとのこと。
とりあえず、アランパの近くの海岸におり、海に入る。
空腹のため食事をさがす。
食事はさんざん苦労して探したよろずやさんの庭先でカップメンをつくってもらって食べる。缶詰2ケ及びおかみさんが出してくれたサツマイモの"天ぷら"。しかしよい昼食で一同満足。
食事をとるために一時間近く苦労したおかげで、久高の村の様子がかなりよくわかった。
おばあさんを除いて人はみな外へ出ている。海へあるいは沖縄本島へ。

家の配置や道路のつくり、そしておばあさん達の我々への話し方それらすべてが、この島が古くから守ってきた神への信仰、祖先の魂を、外部の人間にさらすことを避けようと意図しているようにみえる。
実際には家は解放的であるし、道路は通行禁止になっているわけではないが、何かそうように感じさせる不思議なものがある。

伊敷の浜にでて、珊瑚の海へ。
神々しい美しさというべきか。この海水浴は、何か、神々と戯れるような無心のよろこびがあった。     (瞑想)
3名足のケガ。西田氏のみ無傷

ニライ荘で夕食。部屋で焼酎。睡眠。

焼酎を飲みながら話し合ったこと。
 沖縄の日本復帰の功罪
 沖縄独立論
 今後の沖縄経済
 
問題提起 沖縄の経済開発論のすべてが第2次産業開発を中心に発想している。
日本経済がすでにその次元(第二次産業論の次元)では現実に追いつかないのだが、沖縄は日本の中で相対的に遅れているのだから、なおさら発想を逆転すべきではないのか。
第3次産業開発の政策思想をつくらねばならない。
観光産業も思想にバックアップされねばならない。
沖縄経済は地代経済に汚染されている。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp