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松井隼さんの思い出松井事務所以降
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*東條 巖

松井さんと晩年の仕事をともにして

株式会社 数理技研 締役会長 東條 巖

 私は松井さんが亡くなる前の10年ばかり、様々な経緯から、一緒にビジネスをやるという関係に入っていました。私の会社の社業は計算機ソフトウエア開発ですから、プログラマーでもシステムエンジニアでもなく、まして仕事を取ってくる営業さんでもない松井さんには一時の居候という始まり方でした。彼はすでにコンサルタントという便利な肩書きで自分の顧客も持っていましたので、これが自然だったのです。それでも、私と彼との付き合いは学生時代のセツルメント運動からの長いものでしたから、気心を知り合った二人が組んで何かをやれれば、それはそれは大したことがやれるだろうという期待を抱かぬわけではありませんでした。それぞれの生業にはふくらみが在りますから、その重なる所が当面のビジネスゾーンだったわけです。
 しかし、実はこのふくらみが、当事者の予想を越えた大きさへと膨張し、長く壮烈な物語へと発展してゆきます。以下にその過程と顛末を振り返ることで、松井さんの晩年がどのようなものであったのか、浮かび上がらせることが出来れば幸いです。記簡潔明瞭を旨に、この畏友にふさわしく軽やかに筆を運ぶことに心がけたく思います。

1. ぴあ界からの訣別

 松井さんの50代の後半は、私が命名する「ぴあ界」からの訣別で始まります。このぴあ界とは、彼の身辺にビッタリと貼り付いたチケットぴあ事業の成功物語の名声及びその名声を慕って集まった一群の人々を言います。このぴあ界は実は彼が綱領を起こし叱咤激励のうちに自ら形成したものだったはずが、何時の間にか彼を疎外するものに成ってしまっていました。綱領とは「表現の自由」というロマンを著作権の力学として解いた松井テーゼのことです。しかし綱領の常として、「戦術」は出たとこまかせの何でも在りです。
 戦術の展開を可能とするのは、社会状況の不連続な飛躍しかありませんが、残念なことに松井さんが期待していた情報通信技術(ICT)の飛躍的な発展は、我が国では著作権という世界をいささかも揺るがすものとは成りませんでした。米国では、ほぼ彼の読みが当たって、インターネットが破壊力となってコンテンツの開放の波が連鎖的に興りました。しかし我が国では、彼の集団が突き当たった壁は、既得権益にガッシリと守られた不変の興行、放送、通信、出版という日本型コンテンツ業界構造の壁だったのです。しかしこの閉塞状況だけなら生み出したものから疎まれる疎外は生まれませんでした。疎外を生んだのは、彼の周辺の集団としての絶望感でした。予言者としてまさに彼は失脚したのです、失望と不信の内に。しかし集団はひとたび利益共同体として出発した以上は名声も綱領も手放せません。だから数年の間「飼い殺し状態」に彼は置かれます。ここで彼が決然とぴあ界を去れば良かったと私なら考えてしまいますが、人一倍責任感の強い彼はこの孤独の疎外状況にじっと耐え、そして不思議な病気にかかります。想像妊娠ならぬ「想像癌」です。後で聞けば死も覚悟したそうです。彼の苦悩のいかばかり深かったことでしょう。しかし偶然にもやっと通じた電話で私の説得は成功し、とある病院へ入院したところ、下された診断は「栄養失調症」だったのです。数週間の療養で、彼は生還します。そして集団はすでに彼を見限っていたことを発見します。
 ぴあ界からの決別は、こうしてまさに命賭けの過程を経て達成されたのでした。内からの排除でも脱走でもなく、沈潜の極地への外からの偶然が彼を救ったのです。

2. 松井事務所、または好好爺の日々

 ぴあ界からの決別の後、私が誘った旧満州への旅などを経て、彼は私の会社フロアの一画に陣取り机一つの彼自身のためのささやかな事務所を開きます。通称、松井事務所です。ここで彼は芸団協などかっての知り合いから著作権関係の調査の仕事を取り、しばらく平穏の時を送ります。しかしこの平穏も一時で、99年からは一気に私が周辺で暖めていたふくらみが見る見る膨張する勢いの中へ飲み込まれて行きます。その一つが日本のブロードバンド通信の突破口となったADSLベンチャー「東京めたりっく通信」であり、他の一つが前年の「東京インターネット」株の売却益を持ち寄って創設したベンチャーキャピタル「東京エンジェルズ」であります。この年から2001年まで続くインターネットバブルの真っ只中に我々は踊り出たわけです。私が会長・社長と歴任した前者では、会社の一階フロアに設けた「めたりっくバー」の運営責任者を、私が創設時社長となった後者では投資案件をめぐる面接・調査・評価などの事務局長職とさらに後には私が前者に集中するため辞任した社長職とを、それぞれ務めてもらいました。いずれも私の申し出た依頼を何の躊躇も無く快く引き受けてくれ、一心同体のように立ち振る舞ってもらったのです。彼の存在抜きでは、この間の綱渡りのような我が身の処遇をうまく切り回せたかどうか、怪しいものだったでしょう。世に分身というものがあるとすれば、この時の彼がまさにそれでした。
 それとともに、まさに好好爺のような松井さんを発見したのもこの時です。松井事務所は何時の間にか一人、二人と若い男女が増え、ついには5人ほどの所帯までに膨らんでゆきます。IT技術者といった人種を長年相手にしてきた私には、およそどのように対応して良いか分からない応接サービスやベンチャーの評価調査に取組む人種を、彼は実に卒なく楽々とマネージメンとすることができるのです。この秘訣は、彼の手練手管にではなく、彼のもって生まれた性格にあると理解するのに長い時間はかかりませんでした。彼の日ごろの高尚なメディア論や著作権理論への共感もあるには在ったのでしょうが、事務書員たちが懐くのは、ふるい言葉でありますが「好好爺」と呼ぶのがぴったりの松井さんそのものの個性によるものが大だったのです。
 好々爺の日々、しかしこれは私の主導権の発揮でもろくも消し飛びます。60億円の資金を集めた「東京めたりっく通信」はNTTとの全面的な対決を前に松井さんを除く事務所員全員を自社に移籍してしまうのです。これに対して、彼は何一つ文句を言わず全面協力を惜しみませんでした。見え始めてきたブロードバンド時代を確実なものとするためには、松井事務所の一つや二つといった高揚する雰囲気の中で事は進みました。しかし2001年6月、このべンチャーは矢弾尽きてソフトバンクに売却されます。40億円の負債が重くのしかかる中、ネットバブル崩壊を受けた資金調達に失敗しての痛恨の蹉跌でありました。しかしこの一点突破があったからこそ、今日の日本の超低額な大容量常時接続という世界に冠たる通信インフラが実現されたのであります。松井さんはぴあ界ではなくいわばめたりっく界と称すべき新世界を通してこの進撃を支えた好好爺であったということができるでしょう。しかしこの時点では好好爺転じて阿修羅へと変貌する道が用意されていたとは本人も含めて誰も予測することが出来ませんでした。

3. 電子図書館システムへ最後の挑戦

 「東京エンジェルズ」の投資先の一つに「イーぺディア」というベンチャー企業がありました。主として辞典、法律書、技術文献など専門性の高い出版物を利用者が場所と時を選ばずインターネット端末で検索活用できる仕掛け、いわゆる電子図書館システムを日本で初めて開発し商用提供することを目指す先進的な計画に踏み出していました。著作権者、出版社、利用者のいずれも満足できる技術基盤もコンセンサスも、先行するCD出版の経験により一定の完成度に達していました。ADSLブロードバンド普及によりインフラも充実、いざ上場へとベンチャーマネーをかき集め意気盛んな状態にあったのです。非常勤役員の立場でこの事業に関わりを持つこととなった松井さんは、自らのライフワークである「表現の自由」の壮大な実験場をここに見出したと確信したようです。「何か運命的なものを感じる」と私に語ったのは象徴的と言えましょう。
 2001年の後半にかけて、彼は一投資家の立場から、事業の重要部分の相談相手に、そしてついには常勤取締役として業務執行の中枢部分の担い手へとイーぺディアへの関与を急速に深めて行きます。松井事務所はいまやこの会社の中に溶け込んでしまいました。しかし電子図書館市場の実現を拒む壁は存外に厚く、ネットバブル崩壊に出版不況が追い討ちをかける状況の中、予定していた資金調達に次々と失敗し、2年はじめには一挙に資金不足に陥ります。ここにおいて会社整理の選択が浮上してきます。しかし創業社長、社員ともに給与未払いを覚悟の最後の一戦を望む声は強く、ついに彼は衆望に押されて全権を持つ社長へと急遽推挙されます。このとき、果たして彼は展望が在ったのでしょうか? 状況を転換させる秘策を持っていたのでしょうか? 在ったとも言えるし無かったとも言える、これが正直な所でしょう。でも彼は怯む気配はいっさい見せず、決然とこの任を引き受けました。「最後の挑戦」という覚悟が強く感じられました。しかしこの賭けは失敗に終わります。彼の持てる諸関係を根こそぎ動員して阿修羅のように財務、営業、技術の全分野に新展開を試みますが如何ともし難くついにはもはや倒産の手段しかないという最終段階を迎えます。彼個人のなけなしの全現金も、またちょうど私が手にした退職金の相当部分を注ぎ込んでも、ついに突破口は拓けなかったのです。2年8月、静かにイーぺディアは消滅します。松井さんの痛酷の涙はいかばかり苦かったことでしょう。
 倒産後の敗戦処理が私と松井さんとの最後の協同の仕事となりました。私は創業社長とともに彼個人の救済と破産手続処理とに向かいます。彼は解雇された社員の救済と新事業の真っ更な立上に赴きます。資金は倒産により国庫から補填された社員の未払給与です。技術は在る、客もいる、大掛かりな電子図書館システムでなくセキュアなドキュメント配信システムという要素技術での事業を立ち上げたいという社員有志の強い意向に応じることで、彼は彼の責任を果たす道を選んだのです。この会社が、彼の死の直前まで無給のまま社長と会長を勤めることとなった「インテリジェントネットワーク」です。彼への信望を軸に小さいが何人かが食えて行ける技術を持った中小企業として地歩を固めています。ここでの松井さんは、かの松井事務所時代の好好爺の松井さんに戻ったのものと考えてよいでしょう。
 敗れ去ったとはいえ最後の挑戦には救いがありました。ぴあ界からの訣別が臨死的体験を経て達成されたとするなら、イーぺディアからの訣別は、全力を出しきって思う存分に戦った末の、心地よい虚脱感のなかで達成されたからです。実際の所、私と彼とは、その後イーペディアの思い出話をすることは一度も無く、その必要も感じたことも在りませんでした。我々を阻んだのは、単なる「時の運」だということが了解済みだったからです。

4.結びにかえて

 美は乱調に在り、とするならば、真理は破調に在り、これが松井さんの63年の生き様ではなかったかと思います。彼にとって、正調は一貫して我慢のならないものだったようです。彼の恵まれた天賦の才の中でも、とりわけ私を感動させたものは、この破調の独創性でした。論理で捏ねた結論ではなく、まさに直感から湧き出るものでありました。そうであっても、私には論理の後付けで初めて得心が行くことばかりでしたが。
 彼が最後に試みた電子図書館システムはチケットぴあと同様に着想が非凡だったのではなくやらせ方が非凡だったのです。「諸橋の大漢和辞典が誰でもさっとブラウザーで見られる、これが大事なのだ」と彼が呟くとき、そこには破調が正調として響くのです。乱調には決して陥らないのです。また、死の床を見舞ったときの最後の会話は、「癌患者の最後の友はモルヒネである」というスローガンを紹介して曰く「セツルラーのテーマにぴったりだろ」という破調でした。セツルメント運動は彼にとっては一連の破調の原点だったのに違い在りません。
 この破調の旋律を五線紙に写すことを彼は断固として拒否しました。依頼すれば「おいおい、勘違いしてもらっては困る、破調は私の独占物ではない、みんなの中に潜んでるではないか」という叱声が聞こえてきそうです。ですから、彼の思想や事跡に偉大さが在るとするなら、それは可能態を必然態へと転じる洞察の深さに求めることが至当です。必然性の証明や方法の体系化には彼は馴染まないのです。まさに「一犬虚に吼え万犬実を伝う」の一犬こそが松井さんだったのです。
 彼の晩年の私生活は、私にはまったく謎のままでしたが、彼の逝去を機に伴侶の方と知り合うことができました。この方から「あんな楽しい人がほかにいますか」と一言指摘された時、私は遅ればせながらはたと思い当たりました。我たちは松井さんの破調という調子を存分に楽しませてもらっていたのだという真実を。
 松井さん、あなたは限りある人間の生を存分に楽しんだのですよね。
 私たちもあなたの軽やかな笑い声の残響のうち、それぞれの残された僅かな生を存分に楽しむこととします。それがあなたという存在を知った私たちのささやかな連帯なのです。どうぞ安らかな永遠の眠りに憩っていてください。
 合掌。
    2007年6月15日記す

松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp
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