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松井隼さんの思い出駒場寮・川崎
■ 駒場寮・川崎
*小沢 健二
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■ 松井事務所以降

松井さんのこと

2008年12月24日 小沢 健二

 東条さん、中島さんから連絡を受けて、幸田さんと一緒に駒込病院に見舞った時、松井さんはすでに相当にやつれ、発声もままならぬ状態であった。しかし、私達を識別し、手をしっかりと握りしめて離そうとしなかった松井さんの手の感触は、はや二年半も経つ今も肌に残っている。
 松井さんを知り、最初に会話を交わすようになったのは、大学二年目の駒場寮の川崎セツルの部屋に入ってのことである。大学に入った一年目の秋頃には、松井さんと跡部さんとをセットで人づてに聞くようになっていた。それは、バイトなどの帰りの終電間際の井の頭線で渋谷から寮まで帰る二人の姿を、噂に聞くあの二人だなと見ていた記憶があるからである。松井、跡部さんの二人は、彼らが二年生の時には左翼的な駒場寮の寮生間では独自の存在として知られ、憧憬の対象を追い求める若者に特有な心情で私なども遠くから二人を見ていた、今となってはシルエットのような残像である。
 駒場二年目に川崎セツルの部屋に入室した契機は、一年次に部落研に属し、同じ部落研の中島さんがセツルの人達と一緒に学生活動に取り組むようになったことである(ちなみに、部落研の定期的な反省会の折りなどに、中島さんは何事も曖昧にせず、徹底した論議をされていた。そのことが、大学一年目の最大のカルチュア・ショックだったかもしれない)。当時、入室していた野球同好会の部屋から出たかったことと、川崎セツルの寮部屋を確保するための員数合わせの勧誘、その両方の事情が重なって川崎セツルの部屋に入室するようになった。
 最初に会った時から、松井さんには周囲の東大生とは一味違う独自の存在感があった。それが、何故であるかは巧く説明できない。松井さんの話は特有の穏やかな口調の暗喩に富み、文化、芸術ばかりか小生などが不案内な数学、物理学にまで話題が遡及することも多かった。そんなことが、田舎出の小生には多分に影響したのかもしれない。余韻を残す語り口のために、内容を充分に咀嚼できないままに魅了され、その意味を自分なりに考えなければならない、そんな気持ちにさせられるところがあった。松井さんとの会話(というより松井さんの独話)は、そんな雰囲気を常に醸し出し、この駒場寮時代に刻まれた印象は最後まで変わることはなかった。
 以下、松井さんが語っていたことで印象に残っていることを、時々の状況と重ね合わせて簡単に記してみたい。あやふやな記憶の糸をたぐり寄せる類のものである。  時間が前後するかもしれないが、最初に印象に残っているのは、川崎セツルの部屋で何人かで当時の学生運動への対応について話し合っていた時(多分、松井さんは近くで聞き役にまわっていたかもしれない)、”共産党に一回も入党した経験がない人達の学生運動に関する話は信用できない”、とポツンと松井さんがつぶやき、それで話が中断してしまったことがある。また、川崎セツルの中心メンバ−が新しい学生運動組織、MELT同盟を(小生などは、その経緯を全然知らなかったが)立ち上げていた頃、それと関連し、”MELTのTはトロッキ−かトリアッティ−かで運動論が全然違ってくるのだがな・・”と語っていたのも、松井さんだったような気がする。そんなことが、寮生活半年間での松井さんが語ったことで印象に残っていることである。
 雑魚寝とムスケルが中心の駒場寮の川崎セツルの部屋から半年弱で脱出し、秋からは跡部、中村さんと三人で川崎の白栄荘に一緒に生活するようになった。二人が先に生活しており、そこに転がり込んだような格好だったかもしれない。その頃は、川崎セツルの運動はすでに中島、跡部さんの二人と東条さん達の学年が中心となっていた。そして、すでに松井さんは寮を出て一足早く休学し、川崎の工場で働くようになっていた(松井さんが工場で現場労働者で働くようになったのは学生運動に飽きたらず、労働の現場を肌で知らなければならないとの考えにもとづいてのことだと最近まで思い込んでいた。しかし、松井さんが亡くなってからの跡部さんの話で、結婚資金を稼ぐためだったと始めて知らされた。思い込みと事実の乖離というか、思い込みの度し難さである)。同じ川崎市内のこともあり、松井さんは時に白栄荘を訪ねてきた。その折、”労働者は実に本を読まない。時間を見つけて本を読んでいると、本ばかり読んでいると結婚もできなくなるよ、と周りの労働者から言われる、村川さんは例外中の例外だよ。”などと当時、集中して読んでいたようであるロマン・ロ−ランの著作の紹介と重ねて松井さんの現場労働者観が語られることもあった。 
 その後、すぐに松井さんは結婚された。新しい生活に入ったことも影響してのことだろう、しばし会う機会はなくなった。再度、接触するようになったのは、松井さんが大学院への進学を考えて経済学部に編入してきた、小生が大学院の3年目の頃である。川崎で現場の工場労働者として働いていた頃から、4年前後が経っていたことになる。松井さんが経済学部に編入したこともあって(門ちゃんも大学院の一年生だった)、神林夫妻、田中学さん、竹川さんなどと一緒に少人数で経済学の勉強会をもつようになった。松井さんが報告した時に、「松井君は意外にクラシックだな」と神林さんが感想談めいたことを語ったことが、何故か記憶に残っている。
 その勉強会も、折りからの東大キャンパスの激動のなかで取りやめとなり、松井さんも当時の状況下で大学院の進学を断念された。生活面のこともあってだろう、博報堂関係に入社したことを間接的に聞いていたが、跡部さんのご母堂や小野さんの告別式で数年に一度会い、言葉を交わす程度の付き合いとなってしまった。そのように、松井さんと接触の機会もないままに70年代から80年代後半が過ぎていった。そんな折り、80年代末に(確かな年月は忘れたが)、ピア総合研究所の所長としての松井さんの談話が朝日新聞に掲載されているのを見かけた。当時、流行りだしていた「企業の文化活動」を話題にした、面白いものであった。
 当時、勤め先の農業総合研究所で行政官向けの研修業務を担当し、ゲストスピ−カ−の枠もあったので、早速、松井さんに特別講師をお願いした。相当に多忙のようであったが、松井さんは時間を割いて講師を喜んで引き受けてくれた。”転職が私の天職です”と冒頭に自己紹介した後、日本の技術開発の特質を企業文化論と関係づけるスケ−ルの大きな講話であった。話題は様々な領域に拡がり、受講生の行政官も熱心に興味深く聴講していた。多岐にわたる講演の全貌をはっきりとは思い出すことはできない。ただ、「創造性は模倣の徹底化を通して始めて可能となる」ことを強調し、出身地の浜松周辺の特定企業を事例に日本企業の技術開発がいかに展開されたかが、主たる内容であった。
 その後、中島さんが尽力して催された囲碁会を兼ねた前坂さんの追悼会が縁となって、幸田さん、松井さんと一緒にしばしば(と言っても数回ほど)盤を囲むようになった。その時々に、文学、宗教、歴史などの分野で松井さんが読み、興味を持った本などを問わず語りに断片的に語り、それに耳を傾けることもあった。ただ、碁を打ち、アルコ−ルを飲みながらのこともあり、断片的な話が多かった。そのなかで、”中上健次を最も早く見出した一点で、柄谷行人は評価しうる”、”高群逸枝の「遍路巡礼記」が面白い”などと語っていた。また、東条さんが関係するIT関連事業の様子、その可能性などを耳にしたのも、そんな折である。
 そうしたなかで比較的纏まった話を聞く機会は、松井さんが調子を崩し、日本医科大学に入院しているとの連絡が東条さんからあり、見舞った時であった(この時も幸田さんと一緒にであった)。松井さんは、入院後の経緯を”三途の川を渡るか渡らないかの冥界の縁に行ったよ”、と洒脱に語りながら、何時の間にか話題は日本社会論となり、日本社会の特質を理解するには、政治と宗教の関係を掘り下げる必要があることを力説し、江戸時代の徳川政権の宗教政策とそれに仏教宗派がどのように対応したか、それを実に熱心に論じ続けた。体力の無い病人とは思えないほど饒舌に、”徳川政権が浄土真宗をいかに彼らの統治政策に取り込み、本願寺側も宗派拡大のためにそれを絶好の機会にした。それは、織豊政権による浄土真宗に対する苛烈な弾圧の歴史的背景にももとづいている”などと語り続けた。民衆の土着的な生活観と底流で結びつく日本の宗教のあり方、特質と時々の政治的な統治主体の有り様、その相互関係の解明を抜きにしては日本社会の特質は論じられない、という内容であった。フランス社会とカトリック教会の関係に関心を持っている幸田さんが一緒だったことも、話がそのような方向に向いた一因だったかもしれない。
 もう一度の機会は、”門ちゃん”の告別式かあるいはそれに関係した折りの土浦から上野までの常磐線の帰りの電車で向かい合って座った時、江戸時代の水利関係について話してくれた時である。江戸の経済発展と水利開発事業とがいかに密接に関係しているかとして、玉川上水の建設から利根川の分水事業および利根川を利用した水運と商業発展の経緯まで、工学的な内容も含む詳細な事実を1時間弱の間に、小生の問いに応えるともなく実に滑らかに語ったものである。松井さんが、江戸の水利に何故こんなに詳細なのか、と訝るほどの知識の集積であった。
 松井さんから纏まった話を聞いたのは以上の二回である。考えてみると、いずれも瀕死の状況から脱したとか、親しい人の死に接した後、というような日常性を超えた時である。非日常的な状況が松井さんの禁欲的矜恃をややほぐして語らせるベクトルとして働いたのかもしれない。余韻を残す暗喩的な語り口の松井さんの通常のスタイルからすると、小生にとっては例外的な機会であった。
 駒場寮で過ごした1960年代前半には日本の高度経済成長が始まって10年弱、ソ連型社会主義への幻想は完全に失われていたが、マルクス主義が社会改革への導きの糸であり、その現実的有効性を、私を含めて多くの学生が共有していた。高校時代に入党し、大学一年生の時にはドイツイデオロギ−を原書で読んでいた松井さんの場合、マルクス主義に対する信念は私などよりもっと強かったはずである。しかし、1970年代以降時代状況は大きく変容した。70年代前半には国際通貨制度の崩壊、石油危機などにより、資本主義の世界体制に動揺の兆しがみられたものの、省エネ技術開発によって石油危機を乗り切った日本資本主義は1980年代後半からバブルの時代に入った。一方、IT技術革新による情報革命とサ−ビス経済の深化のなかで、アメリカ資本主義の復権が語られる90年代以降、金融主導の市場原理主義が時代の潮流となった。個人的な感想になるが、90年代初頭に大学に転職したが、時々マルクスに言及しても学生の反応は全くなかった。
 松井さんあるいは東条さん達は、60年代に想定しえなかった資本主義経済の大変容の最前線に身を置いて、80年代から90年代に情報技術革新の新しいツ−ルを使って社会変革の可能性を、多分、模索されていたのではないかと想像している。1960年代末以降の40数余年の間に、松井さんとマルクス主義を話題にした憶えはないが、マルクス主義を否定的に語ったこともなかったように思える。マルクス主義を意識しつつも、日本社会の基層あるいは人々の意識の底流に流れる”音階”、”音律”に後年は関心が向いていったのであろうか、そんなふうに勝手に想像している。
 松井さんの囲碁は、いわゆる筋に明るく、無理筋のない自然の石のながれを特徴としていた。松井さんの生きた状況、環境は、自然の流れに身を委ねるような余裕を許さなかったかもしれない。しかし、私達が会った時には何時も身辺に爽やかな雰囲気を醸していた。それは、絶えず遠方を見ていた視点の長さや、あるいは自分のことを語らない耐える力の大きさと関係していたのかもしれない。私の知っている松井さんは、松井さんのほんの一部にすぎないが、松井さんから聞く話は絶えず印象に残り、思案をめぐらすヒントとなっていた。駒場寮の時代に松井さんを知ったことは僥倖である。松井さん、本当にいろいろ有り難う。

松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp