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松井隼さんの思い出駒場寮・川崎
■ 駒場寮・川崎
*幸田 礼雅
■ ビデオリサーチ
■ ぴあ
■ NTT・劇団四季顧問
■ ぴあ総研・文化科学研究所
■ 松井事務所以降

   

幸田 礼雅

松井君とのエピソードめいたものはいろいろありますが、改まって人に語るべきことはないようです。
松井君はストイックとは言わないが、思い切りのよさで、一頭地を抜いていた。だから生き方も透明感がある。だが、それだけでなく、彼には物事を普遍化しようとする、きわめて豊かな人間性があったと思います。学生運動という、狭く閉じられた空間の思考を抜け出して、また教条的左翼思想の絆を断って、ヘーゲル、アリストテレスなど西欧思想の流れで最も高い地点から、現実の運動をとらえようとしていたと思うのです。そういうところが、若かった僕には新鮮で彼が魅力的に思えた最大の部分です。囲碁は我々より遅く始めたのに、ずっと強くなって、最後はずいぶん負かされた。

ただ僕にとって彼から強い印象を受けた経験は二つあります。
一つは、渋谷で政治的暴力防止法案で松井君が渋谷のハチ公前で街頭演説を行っている際、警官がやめさせようとしたときのことです。そのとき僕は江橋君と二人で彼のそばにいました。ほかにも何人か活動家がいたと思いますが、思い出せない。とにかく大勢ではなかった。警官に肩をつかまれた松井君はひるまずにマイクを握りしめ「官憲の横暴」を群衆に訴えていました。とても激しい口調で政府を糾弾していました。僕はかなり大勢の警官に囲まれて、初めてデモの時にはない恐怖感を感じていました。が、そばで江橋君が見透かすように、そっと「幸田、逃げるなよ」とささやいた。
「みなさん、ご覧下さい、官憲はこのように我々を弾圧するのであります」松井君はマイクを握りしめ、しっかりとした口調で訴えました。僕も覚悟が決まりました。 群衆のなからも「警官、横暴!!やめろ!!」という声があがって、警官は手を離しました。
それからのことはよく覚えていませんが、とにかく何とか我々は寮に引き上げてきました。いずれにしてもあのときの松井君の姿は、今も鮮明に焼き付いております。おそらくそれは松井君の戦いのなかの一こまで、彼が覚えていたかどうか、今となっては確かめることはできない。しかし僕にとっては、忘れることのできない人生の一こまだった。

もう一つは駒場領でのある夜の出来事でした(だいたい寮の印象は夜暗い部屋でごそごそ話していることしかない。昼間は眠っているか出かけているか、どちらかでしたから。以下の段落敬称略)。

江橋と松井が不意に帰ってきて、松井がまず「ああ強烈だった」と繰り返しました。松井はまだそのとき代々木にいたかもしれないが、江橋はとうの昔に離党していました。聴いてみると二人は神林の所へ行って、話を聴いてきたとのこと。そのとき松井は言った。
「神林さんはナア、ソ連は赤色帝国主義だと言ったんだ」
「赤色帝国主義なんて言わないよ、国家独占資本主義だと言ったんだ」と江橋。
このとき僕は何も言わなかったし、何も言えなかったけれど、これは大変なことだなと思いました。何しろ原はロシア語に熱を上げているけど反ソ的な言動など到底受け入れるような心境ではなかったろうし、代々木に見学がてら入って逃げ回っている僕なんかの歯の立つような問題ではないと思いました。
それまで松井は、「細胞会議で反対意見を述べて、首になりそうになったらやめる」という姿勢をとっていました。その後松井は悶々と悩んでいるようでした。ヘーゲルとか、梯明秀とかいろいろ読んでは、僕にも読めと言いましたが、だいたい読んだか読んだふりをする程度でした。それからしばらくして、大川の率いる代々木の人達と、後に権藤の率いるMELTに加わることとなる人達の激論が、確か駒場で行われ、決裂しました。権藤がマル同だということは、セツルに入ったときから分かっていたので、結局来るべきものがきたということだったのでしょう。しかし僕は、大川、権藤に親しみを感じていたので、悲しむべきことだと思いました。その後のことについては、僕は自分自身のこともあるのであまり言いたくはありません。整理ができていないからです。自ら恥じるべき部分があるからです。同学年の多くの人が卒業しても、僕と原は留年して論文を書いていた。もっとも僕の場合は、遅れて始めたフランス語が、授業に追いつかずの留年でした。その頃だったと思うが、彼から結婚したという手紙をもらった。原と二人で生ビールの大瓶をさげて、日吉に奥さんとの新婚生活を送る彼を訪ねたとき、何を話したか覚えてはいないが楽しそうだった。

一つだけ言いたいこと。それは僕は個人として、川崎セツル時代に得た価値観のようなものを失わずに生きたいと思ってきました。中島君に助けてもらったマルクス伝『悪魔と結婚した女』を訳したとしても、歴史的に見てマルクスに及ぶ思想家はまだ出ていないと考えていることも確かです。松井君もおそらくそういう気持ちだったのではないかと思う。そのようにして得られたさまざまな価値観の一つには、憲法9条を守るということもあったのではないか。共産主義という思想が、歴史的真実として現実化されるという可能性については当然疑問、否定が起こっている。だから共産党という言葉も、死語になりつつあるのかも知れない。それも仕方ないでしょう。しかし多くの真摯な努力で守られてきた現憲法を尊重する態度を、「少女趣味」と片づけてしまうような、無神経な人間が集まった集団がセツルだとしたら、我々は権力ばかりでなく、今なお改正反対を叫んでいる人々から敗北を宣告されても仕方がない。ドイツとフランスが過去の大戦を共通の目で見て、教科書で歴史認識を共有しているというのに、日本は懸命に過去の負の部分に目を閉じようとしている。9条はフランスの人権宣言と同じくらい、あるいはそれ以上に立派な条文から成り立っている。かりにそれが完全に守られ得ない非現実的条文だとしても、現在それを捨ててつくる憲法が日本を救うとは、到底思えないのです。

松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp