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松井隼さんの思索社会システム設計
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*『電子計算機と人間』

電子計算機と人間

松井隼/「溶鉱炉下の叫び」第3号 1968年1月15日 鋼管川鉄青年活動者会議

一、 機械

 機械が社会で使用される為には次の前提が必要である。  第一に、労働力の社会的機能が機械的なものであること。言い換えれば、労働力がその社会的関係の内部で機械に等しいものになっていること。何故なら機械の第一義的役割は人間労働を部分的であれ、全面的であれ、排除することにあるからである(別の面から言えば、人間がその社会的関係において、人間自身の為にとっておく労働は機械化されないということでもある。)
 この前提は歴史に於いて、特殊の形式をとって実現された。人間社会が分裂し少数の人間が多数の人間を自己に奉仕すべき隷属者とすることによって、労働力はその社会的関係の内部で機械に等しいものとなった。機械発達の歴史は根本的に階級的対立の歴史に規定されている。
 第二に、機械の生産的機能が人間労働のそれを上まわっていること。この場合生産的機能を測定する基準は、ただその社会的関係の内部にのみあるということに注意しておく必要がある。資本主義社会では基準は、端的に企業経営のコストに示される。コストという概念の中には労働者の思想、宗教、活動性、従順性、肉体的耐久力、その他さまざまの事情に対する商品経済的評価が含み込まれるのである。
 電子計算機の登場する為の直接の前提は20世紀に於ける巨大な企業体(独占資本及び国家)の内部における事務労働の集積である。事務はエリートの特権的労働であることを完全にやめてしまった。事務を大量かつ敏速に処理してゆく為には、人間の手に頼ることは不可能になった。この圧力が戦争という一刻を争う事態の中で異常に強大となり、驚異に値する性能を持った電子計算機が次々と生み出されたのである。

二、 思考

 電子計算機は文字を読み、記憶し、従って思い出し、そして計算する。従来の人間の頭脳の特権だったこれらの機能がそうではなくなった。だが、これらは頭脳の形式的な機能にすぎない。電子計算機は光学的刺激を電気的反応に変え、電気的反応を機械的運動に変え等々するところの複雑な装置によってこれらのことを行う機械である。これが機械で行いうるという事実は、我々にとっと、そういう頭脳活動がそれだけ機械的なものにすぎなかったという事実を証明するのみである。事務労動はaという字を見て、aという字を書き、5という数字を見て、5とソロバン珠をはじくがその意味を知らない。厳密には、それは頭脳労動ではなく、神経労動であるにすぎない。
 思考は対象を認識することであり、認識の基礎は経験にある。即ち、それは無意識のうちに行う寝返りのような動作ではない。意識的な行為であり、従って反省を含み、従ってさらに蓄積されるものである。ある種の電子計算機も、経験し自ら学ぶという。だがその場合、将棋のような数学的なゲームが経験の対象となっているにすぎない。認識する機械を作るためには、第一に意欲的に行動し、第二に積極的に構想し、そして第三に経験を蓄積する機械をつくらねばならない。これは簡単なことではない。例えば、第三の要請だけとってみても、経験を蓄積するということが如何に行われるかを想起してみれば、その困難さがよくわかる。人間にとって経験の蓄積は認識のための手段、手法の形成と同時にでなければ、進みえなかったものであることは明らかであろう。裸体の原始人は、その裸体で経験することができるだけの対象について経験を積むことができるが、それは現代人が多くの機械器具を通して積み上げる経験の及ぶ範囲の数万分の一にすぎぬ。
 認識する機械が人間によって造られた時、人間はその機械に自己の与えうる、あらゆる知識と手段を与えておくことができようが、それにもかかわらず、その機械は新しい認識に向う時、いわば裸体のものとして出発せざるを得ない。そして認識を形成してゆくために、それは自己に従属させるべき諸手段の形成とともに自己をも又形成してゆかねばならない。勿論これは人間の例からの類推である。だが人間がつくる認識機械はただ人間をモデルにしてのみつくられうる。従ってこういう機械つくることは人間以上の人間をつくることであろう。人間が物質からなるかぎり、物質からそういう機械又は人間をつくることが不可能であると断言することはできない。しかしその実現は遥かな未来に属している。従ってこれ以上の想像は空想家に委ねた方がよい。当面の電子計算機はそういうものではないし、又そういう機械又は人間をつくることが問題になっているのでもない。
 電子計算機は固有の経験を持たず、従って構想せず、従って発明発見を行わない。それは意欲することがなく、従って人間に対して従順な機械にすぎない。ただそれは大量の知識を記録し、敏速に索引し、精密な計算を行うことができるのみである。

三、 労動

 電子計算機の出現によって、従来精神労動と呼ばれて、肉体労動と区別されてきた作業は大きな打撃を受けた。それは優越の地位を全く手放さねばならないだろう。ホワイトカラーは機械の前で働く工員になり、逆にブルーカラーは電子計算機の導入にともなう自動制御機構の発達とともに、計器をにらめつつパンチカードを打つような事務員になっていく。勿論こういうことは、長期間にわたる徐々たる過程を通して実現されるだろう。精神的機能が全て、機械に吸収されてゆくように見える。確かに人間の"感"や"技能"は不要のものになってゆくであろう。
 しかし社会における思惟の機能、即ち精神労動の機能が電子計算機の中へ吸い取られてしまうような感想は全く誤っている。通俗的な形では電子計算機が「配偶者を決める」とか、「病名をあて、治療法を指示する」とかいう、大道商人風の宣伝、哲学的装いの下では「人間は機械である」或いは「思考は計算である」という知ったかぶりの"現代思想"がこういう感想に対して具体的な表現形式を与えている。この思想の極限的形式は全ての社会的闘争が機械によって裁かれ、未熟な機械としての人間に対し、万能の機械としての人工頭脳があらゆる判断指示を与えるような、則ち機械によって征服されてしまった未来の人間社会像である。
 だがこの未来像は人を欺く欺瞞的な空想である。電子計算機は思惟の代りにやってきたのではないことに注意しよう。既に思考がないから、或いは既に人間が機械になっていたから、そこへ機械そのものが登場したのである。自分の技能や感を自分の人間的特権だと想って安住していた人間だけが、機械の登場に狼狽しなければならない。配偶者を結婚相談所の選定に委ねる人間がいて、始めてここで機械が役に立つ。
 思考即ち精神労動の社会的機能はどこにあるのか? 言い換えれば社会において、社会そのものを経験に導き、反省し、蓄積してゆくものはどのような位置を占め、実際に何を行っているのか? 或いは社会に於いて判断し、推論し、指示を与え、従って人間を裁き一方の極で機械になっている人間に対して、あらゆる精神活動を自己のもとに吸収して、これを指図している機械ならざるものは何か? それは集中された富であり、同時にその享楽であるところの資本である。更に又、その享楽は多面的な人間活動を資本家社会的理論によって機械に等置する如き、この社会に特有な人間性に依拠するものであることに注意を促しておこう。
 この特殊の人間の特殊の享楽を原点として資本の思考の体系、推論の環がつくられる。
 電子計算機は、巨大化した資本家的企業経営における推論の諸中間項を、最も"合理的"且"科学的"に結合する手段として機能する。これが情報革命と呼ばれる事態の内容である。ここでは人間の思考が社会的なものとして形式的な完成に近づく。資本は意欲的な実践体として経験し、総括し、未来を望むところの思考する者であることが明らかな物的姿態をとって現れてくる。ここでも又、先にあげた、人間を支配し、裁く機械が登場するようにみえる。確かに思考は合理化される。しかしこの合理化を不偏不党の中世的な合理化ととりちがえることは許されない。経験を総括する原理としての思考の根本法則が、以前と少しも変わらない資本のそれであることは明らかなことである。これはいわば資本主義社会の論理法則として、この合理化の過程そのものをも貫いている。
 人工頭脳を賛美する人に対し、皮肉な言い方をすれば、この法則の前では電子計算機も労働者に等しい機械にすぎず、この社会を裁く、新しい精神が支配するまでは、これが唯一の精神的労動として他の全ての労動を、機械のそれに等しいものとしておくのである。

松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp