*
松井隼さんの思索社会システム設計
■ 数学
■ 哲学
■ 社会システム設計
『文化産業論』

『21世紀への高等教育』

『チケットぴあの創業過程』
*(1) ぴあ創業10年という節目と新規事業開発
■ 学生時代の資料

「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」

聞き手 山本 眞人
06年10月29日

(1) ぴあ創業10年という節目と新規事業開発

今井:最初に、松井さんとお会いした時には、この人は日本の頭脳だと感じたのをよく覚えています。

 今井さんがぴあに入ったのは、どういう経緯だったのですか。

今井:1980年頃当時私は通産省の外郭団体財団法人余暇開発センターというところにお世話になっていました。毎年「レジャー白書」を出していたところで研究員をやっていたのですが、担当した「余暇情報センター」構想で余暇情報をオンライン・リアルタイムで紹介する仕組みを国が作ろうという事を準備していたわけです。それに耐えるデータベースを作るという話だったんですけど、街で「ぴあ」という雑誌を見た時に、「その元がもう紙ベースであるじゃないか。」「恐れ入りました」という感じで、ぴあの会社を訪ねて社長の矢内さんに会った。矢内さんの話を聞いているうちに、だんだん紙ベースの方がサービスを提供する上で早そうだなという感じになってきた。それでお互い意気投合しておこがましくもいろんなアドバイスをしているうちに「来ませんか?」という話になって、私はぴあに転職したんです。それが1980年から81年にかけて。その時に、ちょうど時を同じくして、ぴあの中ではキャプテンシステムによるチケット販売という構想を持っていたんですよね。それが、松井さんが担当していたキャプテンシステム実験だったんです。矢内社長もその数年前にイギリスのプレステルを見て、「これはやばいぞ」と。「いずれこういう紙を使わない情報ネットワーク社会が来るから、よく研究しなきゃ」ということで、フランスのミニテルとかも見て、日本でもやっている所がないかと尋ね歩いたら、当時の電々公社がそういうことをやろうとしている。「キャプテン」というのを立ち上げていろんな実験をやろうとしているということを聞き付けて、「これは大変だ、ぴあの雑誌はいらなくなっちゃうかもしれない」ということで、松井さんを中心にキャプテンチームというのを作られて、会社として総力を挙げて実験したんですよね。つまり、「ぴあという雑誌が将来あるんだろうか、近い将来なくなってしまうんだろうか」ということを賭けて。当時、日経新聞社にしても朝日新聞社にしても、この実験にはまだ数十枚の画面しか提供できていない時に、確か17万画面とか、膨大な量の画面を提供していました。こういうシソーラスの検索のシステムとかを独自に開発しながら。当時、キャプテンシステムの電電公社の技術者でも、「こんな使い方ができるんだ」と舌を巻くような使い方まで自分たちであみ出しながら、今でいうコンテンツの非常に充実した実験をした。当時ぴあのキャプテン・ルームには10人くらいの学生アルバイトから20歳台前半の若い新入社員などがいました。今でもぴあにいる田中丸慎二君はこの時の新入社員でした。
 それで半年か一年やったのかな。その中で結論として得たことは、その当時は「閲覧性や携帯性という点で紙の雑誌はまだぜったい強い」という確信、結論をもって、キャプテンの実験は終わったらしいんです。ただ、予約ができる機能というのは、誰もが端末を使うようになった時にはこれはすごいということで、ネットワークシステムの将来性ということについては社長は非常に興味をもった。松井さんがそういう研究実験結果のまとめをされたんだと思うんですね。
 その当時かかわっていた人間が田中丸くん。彼は80年入社だから、1980年の当初からキャプテンの担当者だった。それで東大出身の先輩後輩でいつもそばにいたということもあり松井さんの考えをよくわかっていて、チケットぴあの開発チームに入った。そして流れでチケットぴあの運用もやった。その後彼は、EC、エレクトリックコマースの方に行きましたけど。それで私が入社した81年に松井さんと今井というコンビが生まれて、どちらかというと松井さんがビジョンを作り、今井がそれを形にするという二人三脚が始まったんです。

 なぜぴあがやるのかという点についてはどういう議論だったんでしょう?

今井:「ぴあがチケットの流通をやる検討をしよう」というそのへんは、私が参加した時点では、もう議論しつくされていたというか、あまり議論にはならなくて、必然的な流れとしてもうやるという方向に決まっていたように思います。

 やるという前提で議論をしていた。

今井:なぜやるかというところは、社長と松井さんとか役員の間で、キャプテンシステムでチケットを販売するんだという方向性を考えた時点ですでに十分議論されていたんじゃないかと思われます。そのへんは整理されていて、そもそも我々中途者が集められたのは、ぴあが雑誌でスタートして10年目だったんですよ。それで雑誌でもうかっているお金を今のうちに使って、第二の金の成る木を植えたい。商品30年説で言うと、衰退する時が来た時に乗り換えられるような金の成る木を考えてくれというのが、私に与えられたテーマだった。だから、私が新しい業界に転職して感覚がまだ新鮮なうちにアイデア出ししてくれと言われて、ぴあが取り組んだらいいと思われる新規事業の案を12、3出した。その中の一つがチケット流通であり、その中の一つは会員制事業であり、その中のひとつはリゾートホテルの経営とか健康づくりのスポーツクラブの経営とか、それこそとんでもない発想で、なんでもかんでも、今まで余暇センターでこんなことできたらいいなと温めていた、旅行会社とかをアイディア出ししたわけです。その中で、いろいろおもしろいけど取りあえずチケットやってみようかという話になった。

 それが、松井さんと今井さんの間の、第一案ができる最初の頃ですか。

今井:最初の頃ですね。ただ、私が出したメニューの中で、これと言ってすぐそこに入って行ったところを見ると、チケット流通に関しては、松井さんや社長をはじめとする役員緒候の中でこの方向がいいよねという話があったからだと思うんですよ。

 アイデアを10幾つ出したのは、今井さんと松井さんの間のやりとりですか。

今井:社長から命ぜられて、松井さんを通じて役員会に報告されました。その中で、チケットとそれに附随する会員サービス。返って来た答は、会員事業はあくまでもチケットのお金のやりとりを楽にする補完的な仕組みとして位置付けられていたんですね。10幾つか出したうちのメインはチケット流通、それに付帯して会員事業。この二つについてさらに検討してくださいという答が返って来た。

 それは松井さんと二人で議論をしたんですか。他の人は入っていましたか。

今井:13のアイデアについての議論は私と松井さんと二人でやりました。だけど、最終的には役員会を経て社長の判断で絞り込んで答が返って来たので、そのへんが私が中途で採用されるに至る議論の中で、たぶんこっちの方向に行ったらいいんじゃないか、そのためにはこういう人材が必要だねということになっていて、私がたまたまその網にひっかかったんじゃないかと思うんですよ。

 松井さんがぴあに入ったのが何年でしたっけ?

今井:私も松井さんから飲みながら聞いたこともあるんだけど、確かな記憶ではないけど、私が入る1年か2年前からぴあにいたと。2年前はビデオリサーチと二股かけるような感じで、アルバイト的にアドバイザーみたいな感じでいたと聞いています。

 たぶんそうです。ビデオリサーチでぴあの調査担当になったということだと思うんですね。それでいろいろ調査を担当して、ぴあのことをいろいろ理解するようになって、たぶん矢内さんに「ぴあというのはすごく重要な所にいるんだから、そのつもりでやりなさい」みたいな話をしたんじゃないですかね。それでだんだん「じゃあ、あなた来ませんか」という話に移って行ったんだと思うんです。

今井:そうですね。それで、私が入る1年前、1980年の1年は、もう取締役開発部長というラインに入っていて、ぴあの人として、キャプテンとかいろんなことを考えられていました。

 たぶん今井さんが言われた、創業から10年で次の柱を作るという同じテーマを、松井さんも矢内さんから「こういうつもりでやりませんか」と言われたんじゃないでしょうか。

今井:ですよね。

 という流れの中で、同じテーマをより具体的にするために今井さんにも入って下さいと。たぶん同じ流れの中にいらしたんですね。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp