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杉村壮吉さんへ

 先日電話でお話したとおり、ファーレ立川を北川フラムさんにご案内して頂きました。
 カスミの神林社長のお勧めで、神林社長も同行です。夕方5時30分ごろから1時間30分間の見学でしたから個別の作品について詳しい感想を語ることはとてもできません。90分で102作品でしたから。北川さんも超特急のガイドといっておられました。気に入ったものもあれば、特に印象を持てないものもありました。とはいえ、街の景観を作るのにこのように正面から彫刻家たちが動員されているという事実を改めて認識したわけです。それは都市計画家・建築家・彫刻家達の新たな出会いの場が作られつつあるという証なのでしょう。そういうフォーメーションが試みられるということに、なにものかが新たにつくり出されることへの期待を感じさせます。
 ファーレ立川は、私が見学している時間帯、スケートボードの少年たちに占拠されていました。これは代々木公園や上野公園でみる場合と同様に、私には空間の開放性を感じさせてくれるもので、好感を持ちます。空間が彼らを許容しているかぎり彼らも空間を許容するでしょう。北川さんはアート作品と彼らは今のところ同居しているといっていました。私には少年たちがもう一つのアートと見えたのですが、北川さんがそう思っているのかは分かりません。また少年たちが作品をどのように思っているのかも分かりません。少なくとも少年たちは作品を傷つけるようなことはしないようです。
 作品のメインテナンスについてはいくつか問題が生じているようです。これは今日読み終えた杉村さんの書物の大事なテーマにも関わる話ですが、当日印象に残った大切な事なので書いておきます。一つは作品の状況を北川さんの会社の社員が出来るだけ毎日見て回るということを実行されているということです。北川さんの気持ちが伝わってきます。第二はそれは業務として委託されていないということです。このような空間を維持管理する予算は住宅都市整備公団や立川市には計上されていないわけです。第三は街区の一部の商店・企業などが社員を使って作品の周辺や作品そのものの掃除などをやりはじめたということです。とはいえ、素人には手のでない電気系の使われた作品や高いところに設置された作品も多いわけですからボランティアにすべてを任せるわけには多分いかないのではないでしょうか。
 両性具有の外国の神像の彫刻が余りに度々悪戯されるので、厨子を作ってその中に収めて一年に一回だけのご開帳をするということにしたという作品を厨子の外側だけからみせてもらいました。

 杉村さんの著書そのものについての話題に入ります。論点は明瞭で特に違和感を覚えるところはありません。ただし私は建築や環境よりも、舞台やパフォーマンスの領域により密接に関わってきたという経緯から、そちらに引き寄せて問題を考えてしまいます。
 ファーレ立川について杉村さんが後書きで引用されている朝日新聞の論評を書いた記者は恵比寿ガーデンプレイスを比較の材料としているようだと北川さんはいっていました。
 また、ファーレ立川でも週に一二回イベントを行っているともいっていました。その内容には北川さんご自身の興味はあまり強くないような口振りを感じました。
 都市計画家と建築家と彫刻家が一つの空間を設計するためにコラボレーションできる状況は楽しいのですが、舞台やパフォーマンスをつくるメンバーが参加していないのは納得しにくいのです。いうまでもないことですが空間は同時に時間的存在です。ところが多くの劇場や公園がそこで行われるであろう舞台芸術や祭りの内容を余り考えることなく作られている。建築家達の頭にそれらを考慮した形跡が見られないのです。
 公共的な空間は同時に公共的な時間を生み出すものであります。いっきに日常と公共が空間で出会うというより、公共的な時間を介して日常と繋がっていくのではないでしょうか。

 パブリックに対立する概念はプライベートですが、私はかなり永い間これらの概念の内容について考え、自分なりに納得のいく理解を求めようとしてきたのですが、満足できるところまで達しているとは言えません。

 アートの力を借りて街をつくる、といわれているのですが、そこで言うアートの力とは何なのでしょう。
 私は次のように考えます。
 何よりもアートは記録なのであろう。あえて言えば美しいものや感動、喜びや悲しみや怒りに関する記録と言うべきか。その記録をもとにして、私たちは普段忘れてしまいがちな美しいものや感動の記憶を思い出し確認する。それは私たちの情動の歴史証言である。
 経験は個人的なものである。しかし、個々人の経験を構成するものは文化的伝統や社会的な共同作業などを通じて共通の世界に繋がっている。経験はそれを刻印する記録をメディアとして共有の対象となる。

 文化的伝統を異にし、また社会的共同作業を行うことのない個人の間で、コミュニケーションは可能だろうか。あるいはアートは可能だろうか。

 異次元の世界からアートが届けられるてくる。我々はそこにどのような記録を読み、どのような感情を惹起するのであろうか。

 直観的な理解と呼ばれるものは、特定の仮説を選択する意志そのものである。
 特定の仮説というものの内容は、多くの場合アナロジーであろう。何かを提示されたとき、それを理解するために、過去の経験が参照され、ある種のモデルがその何かを理解するのに適しているという判断が行われのである。

 コミュニケーションが可能であり、アートが共有されるということは、そのような直観的な理解が、時に失敗しつつも仮説に修正を加えつつ度々成功するようになる、ということなのであろう。人間同士がコミュニケーション可能であるということは、過去のそのような成功体験をふまえて、人間同士はコミュニケーションに成功するはずだ、という仮説を採用することなのであろう。

 人は一人づつ異なる周波数で世界を観測している天文台のようなものである。あなたは私とは別の世界を見ている。あなたは私と同じものを見ているのにあなたに見えるものが私には見えない。あなたが感じとっている事柄が私には感じ取れない。それは一人づつ世界を異なる見方で見ているのである。だから世界のイメージは一人づつ別のものである。しかし、異なる周波数で調べられた宇宙が、各々独立した意味をもちつつ、それらは重ね合わされることによって、宇宙のより深い理解が可能になる。  重ね合わせが可能であるという現実がある。いったいどうしてそんなことが可能なのだろう。
 三つの条件がある。第一は観測した結果が表現されるということである。表現は共通の周波数の世界を作りだす魔術である。第二は重ね合わせようとする意志である。第三は重ね合わせの成功体験である。
 共有されるフレームが多ければ多いほど重ね合わせは容易になる。共有されるフレームがないときは、その時は、どこかにフックのようなものが無いかを考えつつ、勝手に仮説を設けてただ闇雲に重ね合わせてみる以外にない。失敗の可能性は高いが、同じ宇宙を観測しているのであれば、成功することがないとはいえない。つまり、別々の宇宙イメージから合成されたイメージが作られる。とはいえ、その合成されたイメージが一人一人の内部に取り込まれる時、その取り込みという行為もやはり個別的に行われるのである。この結果は各々が観測した世界について語りあうということがよりやりやすくなったということ以上でも以下でもない。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp
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