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松井隼さんの思索哲学
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パブリックとプライベート

パブリックとプライベートは対立する概念である。
人がパブリックであるということは、人が自分を人々の視線にさらし、自分を見せ主張するということである。プライベートであるということはこの逆に、自分を人々の視線から遮断し、存在を隠すということである。
この概念に関わるいくつかの論点がある。

第一。
プライベートである事柄といえども、それが存在している限り人々の目に晒されることがある。いいかえれば、プライベートであることは本来難しいことなのだ。 勿論、パブリックであるということもなかなか難しい。何故なら、人は自分の全てを知っているわけではない。だから人々の視線に晒される自分というものを絶えず自己規定し続けなければパブリックであることが出来ない。しかしそうしたとしても、自己規定の枠をはみ出してしまう自分という存在があり、それは表出させることもあれば、表出されないこともある。

第二。
パブリックになる場は限定された社会関係の中にある。つまり限定されないパブリックという概念は存在しない。全人類という言葉があるが、その全人類さえもまちがいなく限定された概念なのである。
宗教はこの社会関係の特定の限定を越えようと試みる。私達は神の前にパブリックな存在に成ろうとする。人々の視線の代わりに、超越的な神の視線を設定し、この視線に自分を晒すことによって現実化が困難なパブリックな自己をつくり出そうとする。 しかし、現実の宗教が限定された歴史的社会的存在であることは言うまでもない。宗教の試みは常に社会的現実のなかに飲み込まれてしまう。

第三。
だから、パブリックとプライベートという概念は相対的なものであり、ある場でパブリックである事柄が別の場ではプライベートとなる。私達は場を選んで自分のある部分を表出したり、隠したりするのである。私達は複数のパブリックな自分をもち、複数のプライベートな自分をもつものである。

第四。
だから個人のプライバシーの権利というものは根拠が一般化されにくい概念なのだといわざるを得ない。
出自や経歴(学歴や病歴や犯罪歴など)を隠すという行為の持つ意味は絶対的なものではない。だれに対してそれらを隠すかが問題である。別の相手に対してはそれらの情報は積極的に開示されることがある。
隠す必要があるという社会関係が問題なのである。隠す必要が生まれない社会関係が社会を支配しているならば、全ての人々はプライバシーの呪縛から解き放たれ全面的にパブリックに成ることが出来る。

第五。
企業や国家の秘密というものがある。いはば、組織あるいは集団のプライバシーである。組織集団のプライバシーは組織成員のプライバシーに転化する。そうでなければプライバシーとしての意味をなさない。個人のプライバシーのように意識されている多くは実は組織集団のプライバシーから発生しているように思われる。
情報公開が必要であると指摘されている。企業や国家が情報公開を進めるということは、それらの組織がよりパブリックな存在へ転化していくということである。それは企業間の競争や、国家間の紛争がプライベートなテーマではなくパブリックなテーマと成っていくということでもある。
そこに生まれてくるパブリックな社会関係は従来の社会関係とは全く異なるものとならざるをえない。競争の手段や紛争に対処する手段が変化しなければ情報公開は進まない。

第六。
都市の匿名性。
群衆の中に紛れ込んだ個人は自分の正体を人々から隠してしまうことができるといわれるが、それは群衆がその人の正体を問題にしないからである。人々に問題にされない個人の正体はその人々にとってはもはや正体でもなんでもない。
その場限りの関係だけがつくり出され、その場限りで解消していくのであれば、なぜ正体が問題となろう。
新聞などのメディアに匿名の主張が出てきても、主張がそれ自身の価値をもっていれば、誰がなんの動機でそれを主張しているのかは無視され、主張は独立して流通する。
ネットワークメディアに生まれる匿名の関係も同じことである。
市場に於ける取引が一回限りの関係でありその場で完結するのであれば、取引する双方は匿名でかまわない。しかしその場で完結しない信用を伴う取引であれば、当事者は双方とも相手が信用出来るのか否かをなにがしか確認しなければならない。
市場は信用を伴う取引で充満している。消費者は企業や商品の信頼性を問い、企業は企業の信頼性を問う。だから、都市における匿名性という現象はほんの部分的な現象でしかない。信頼・信用の根拠を明かすために、人々や企業は自己を開示する。つまりそこにはパブリックな関係がつくり出されるのである。
積極的に人と約束を取り交わし、その約束を果たす人が都市あるいは市場においてパブリックな存在となる。自分が何故その約束を果たしうるのかを繰り返し明かしていくことが、その人の市場における自己開示なのである。

投資
消費は何者も生み出さないか。そんなことはない。消費は消費される商品にたいして消費市場を提供する。従ってその商品を生産するシステムを援助する。そのシステムが投資活動として作られているとすれば、消費は投資を支援しているのだ。好ましくない商品に対して不買運動という消費者の抵抗があった。
消費とは区別される投資という行為がある。

     
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp