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地震報道

NHKは関西大震災の当日午前中の間、ヘリコプターによる現地映像を流さなかった。民放各社が各々ヘリコプターからの映像を中心にした現地報道に徹していたのに、NHKは首相官邸からの政府広報の報道を中心に置いていたのである。
地震の被害が巨大なものになるという直観は民放の映像を見ていれば誰にも明らかなことであった。
官邸は多分テレビについてはNHKの報道のみを見ていたのではなかろうか。そうであれば、官邸は自分自身を見ていただけで、現地の映像は殆ど入ってこなかったことになる。
このような大災害の発生に際して、政府広報が重要な役割を持っていることはいうまでもないし、NHKがそのような役割を国営放送局として果たすことを期待されるのは当然であるが、政府広報のみが報道ではないし、ましてや必要な情報は実に多岐にわたる。だから、メディアは多元的であるべきである。
NHKのみを情報源とする習慣を持った聴衆がいるとすれば、彼らは事態の実際にふれることがない。ましてや、災害対策をたてるべき当事者がそのようなメディア習慣を持っていれば対策が現実と適応しないという事態が発生するのは当たり前である。

民放については絵になる映像ばかりを流していたという批判がある。地震発生後のヘリコプター映像に関するかぎりこの批判は当てはまらない。混乱の極みにある地上での取材は時間的に間に合わないだろうし、ヘリコプター映像によるマクロな状況把握は対策を立てる上で大きく役立つものであるはずだ。
民放各社が各々ヘリコプターを飛ばして同じような映像を送っていたことの無駄という批判も、対策本部がつくられて地域の被害状況を把握するために、何地区の映像を撮ってほしいという依頼をテレビ局に連絡できれば、むしろ有効に活用できたということである。
被害状況に加えて使用可能な道路・港湾の確認が行えたら、活動の重要な指針になる。

メディアは我々の時代の感覚器官である。
政府広報はメディアが働くべき一つの機能であるが、それは多元的なメディアの役割の中ではほんの一つの機能でしかない。感覚器官は多元的に組み立てられていなければならない。また見る主体である我々自身が多元的に感覚器官の多元性を活用しなければならない。

私論・試論

もの食うひとびと・辺見・共同通信
共同体は環境を取り込む独自の様式である。
共同体が別の共同体と同じ対象について各々独自の取り込みを行おうとすれば、殆どの場合その二つの共同体の間に争いが起こる。

環境は二重化されている。
文化に従属した環境と未だそうではない環境という形に。
両者は重なっている。
文化は環境を全面的に従属させる能力をもってない。
地震が起こるとき、その他の天変地異が起こるとき、文化に従属しない環境(自然)が文化に従属した環境の脆さを示す。

交換は大別して三つのカテゴリーに分類される。
市場における交換(私的等価交換)・共同体サービスと公的負荷の交換・贈与

企業が救済されるべきであるという論理は何によって根拠付けられるか。
企業は税を負担している・企業は社会において公的機能をもっている・企業は個人の経済を支えている。
個人の経済的救済が職を手に入れることであり、そのほとんどが企業に雇用されることであるとすれば、企業を救済しなければ個人の救済はない。
しかし、いかなる企業が救済されるべきか。
いまだ存在しない企業の救済(創出)こそがテーマなのであるという場合が多い。

地震で壊滅した企業を救済することを通じて、そこに雇用される個人の救済を求める場合も同じことである。
企業が再興され安定した雇用がそこに創出されるという見通しが欲しい。
もし資金の提供を受けた企業が企業として再興されないばあい、その資金は救済といっても、企業者個人の救済に充当される割合が大きく、偏った救済という誹りを招くことになる。
企業の救済と個人の救済は異なる方法を取らざるを得ない。
前者は融資・後者は生活補助である。

場の論理
場はそれ自身の歴史的時間を紡ぎ出す空間である。
場の間の干渉

     
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp