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松井隼さんの思索哲学
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*・1995 執筆検討メモ
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1995 執筆検討メモ

 中江兆民が演説するよりは芝居を演じたほうが聴衆への説得力が増すと語った。コミュニケーションとアートの関係はそういうものであるかもしれない。
 より説得力のあるコミュニケーションを求めて芸術的表現が生まれるか。
 それは宣伝・扇動・プロパガンダと呼ばれてきたものではないか。広告・宣伝の世界にいるコピーライターやデザイナーなどの仕事は効率的なコミュニケーションを求める企業の依頼に応えようとするものである。

 とはいえ、誰が何をだれに対してコミュニケートしたいのかが問題だ。テーマに応じてその表現は異なってくる。
 キリスト教が荘厳な伽藍の中でミサを執り行う。それはキリスト教の信者のコスモロジーを信者同士で確認しあうためのコミュニケーションの方法である。建築・美術・音楽などのアートが総動員で用いられる。
 仏教の寺院も同じようなことを行ってきた。しかし、キリスト教と異なる教義を持つ宗教がキリスト教と同じ芸術表現を生み出すことはありえない。釈迦涅槃の図はピエタの図とは異ならざるを得ない。
 現代社会の企業の広告表現をここに並べて語ることはやや場違いに思われるかも知れないが、実はそうではない。現代の商業広告の世界に用いられるアートは企業の教義を説得するためのコミョニケーション技術である。

 また、コミュニケーションに用いられるテクノロジーがもう一つの問題だ。
 地域と時代によって、利用可能な技術が異なる。同じテーマを表現するとしても、利用可能な技術が異なれば結果として表現は異なるものとなる。

 アートというものが、差し迫ったコミュニケーションの課題を持たない領域として成立しうるのかが問題である。
 確かにそのような領域が成立している。私達はキリスト教や仏教のつくり出した芸術にたいして、信者としてではなく鑑賞者として接する。そしてあるものには感動を覚えるのである。表現者の心にあった具体的な意図を考えれば、それは不埒な行為であろう。

 これは一体どういうことなのか。
 アートというものには表現者の意図を越えた普遍的な何かが存在しているということであろうか。あるいは、表現者の意図そのものに潜在しているなにか普遍的なものがあったのであろうか。
 近代の芸術は普遍的な美を探ろうとした。コミュニケーションの課題が具体的なメッセージを離れ、美そのものであるという思想を採用したのである。この時、芸術と応用芸術とは分離した。詩人とコピーライター・画家と商業デザイナーは別の存在となった。

 芸術は普遍的な芸術と応用芸術に別れた。過去の応用芸術であったものを、普遍的視点から評価し直すという態度が生まれた。キリスト教から離れてキリスト教が生み出したアートを鑑賞する立場は、他方でもっと具体的なメッセージを持ったアートを功利的なコミュニケーションの道具として用いるもう一つの立場を生み出したのである。

 消費が思想であるという視点を採用すれば、あるいは商品やサービスの一つ一つが宗教であるという立場からみれば、それらに奉仕するアートは昔ながらのアートの立場を保ち続けているということができる。
 だから過去との対比において近現代に特徴的なのは、それらと異なる普遍的なアートという存在なのかもしれない。
 しかし、商品やサービスが宗教的普遍性を主張していないという現実から見れば、そこに奉仕するアートは過去に宗教とともにあったアートとは全く異なるものであるというべきかもしれない。
 とはいえ、ここでの問題は商品やサービスはなぜ普遍的な価値を主張しないのか、ということなのかもしれない。商品やサービスは謙虚な存在であって、あらゆるアートを動員してその身を飾り立てているにも関わらず、その価値の普遍性を大声で主張せず、むしろ密かに人々を誘惑するという方法を採用しているのである。それはコミュニケーションの戦略・戦術である。

 別の事例をあげておこう。
 ほぼ毎年のように、国立劇場で天台宗の唱明の公演が行われる。比叡山の寺院の宗教的儀式のある部分が切り出され、演出には限り無く寺院の雰囲気を再現することを心掛けているとはいうものの、寺院ではない現代の劇場の舞台のうえに、ある種のコンサートとしてそれは観客達の前に提示されている。経文はその意味を殆ど失い、一組の特殊な音のセットとして芸術的に鑑賞されるのである。
 意味を失った音の列を熱心に聞く聴衆たちは一体なにを聞いているのか。その音を聞くことは彼らにとってどういう意味をもっているのか。
 経文の持つ具体的な意味から解き放たれた抽象的な音の固まりとしての唱明が、別の視点から価値あるものと見なされ、それを鑑賞する人々を生み出している。しかしその視点とは一体何なのか。

都市と情報誌
 マスメディアは効率のよい大量コミュニケーションを達成する道具として、近代の都市に不可欠の存在である。不特定多数への情報の散布が効率を達成するための技術である。
 その成立は政治的な背景を持っていたし、現在ももっとも政治的な存在である。社会の動向を何から何まで自分で確かめる術を持たない都市住民、しかも、複雑な都市の激しい変化に常に身を晒されている都市住民にとって、マスメディアは不可欠なセンサーである。
 とはいえ、マスメディアは成立当初から、都市に必要なもう一つのコミュニケーションニーズに応えようとしてきた。迷子探しとでもいっておこうか。大都市の中に迷い込んでいくえが分からない相手に、探している自分の存在を示すというコミュニケーションニーズが存在している。大量の情報散布が行われるからこそ、このような特定個人を不特定多数から捜しだすことが可能になる。それだけではない。相手が特定できない少数者を不特定多数の中から捜しだすということさえも、マスメディアの力を借りれば可能になる。迷子探しに対して、結婚相手探しとでもいっておけばよいか。
 情報誌はマスメディアの果たすこのようなマイナーな役割をマスメディアから切離し独立させるという形で成立する。典型的な情報誌は電話帳である。「私に連絡したい人」という全く不特定の多分多数ではない人にたいして、電話番号という連絡方法が示される。
 電話帳は部分的には新聞によってつくり出されているのであるが、しかし網羅的なそれは新聞のスペースの限界を遥かに越えてしまう。だから独立せざるを得ない。  同じく典型的な情報誌として求人情報誌や住宅情報誌をあげることがてきる。これらの場合には情報誌は市場情報システムであるといってもよい。
 不特定多数の海の中で、特定少数者がお互いに相手をみつけ出会うことを可能にする手法が都市には必要であった。それは近代あるいは現代の都市というものを特徴づけている。

     
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp