*
松井隼さんの思索社会システム設計
■ 数学
■ 哲学
■ 社会システム設計
『文化産業論』

『21世紀への高等教育』

『チケットぴあの創業過程』
*(2) チケットぴあのコンセプト
■ 学生時代の資料

「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」

聞き手 山本 眞人
06年10月29日

(2) チケットぴあのコンセプト

 一番最初の今のチームができる前に、松井さん今井さんでおおまかなコンセプトが出来た訳ですね。実際できたものと始めの構想というかプランというか、かなり違うものだったんですか、そのまま実現していったんですか。

今井:松井さんには非常に先見の明があると言うか、一年間キャプテンで「ネットワークでチケットを売る」という概念を考えられていたせいもあって、最初に考えたことの基本は外してない。肉付けしていったという感じです。当時は道具に相当するデータ通信システムがインフラとして世の中になかった。インターネットは日本には入ってきてなかったし、オンライン端末の機器も開発途上にあった。そんな中で結局松井さんがまとめたいくつかの要点があった。ひとつは、とにかく当時のチケット流通というのは問題があって、本来のあるべき姿ではない。どういう問題かというと、Aのプレイガイドで売り切れて、お客様が入手をあきらめたらまだBにごっそり残ってたとか、プロモーターにしても、Aが売り切れたのにBからドドッと公演まぎわに返品があったとか。要するに買いたいという人と売りたいという人の、お互いの需給の関係をちゃんと結び付け消化しきれてない仕組みだった。1980年当時東京近辺で50店舗ぐらいプレイガイドがあって、そこに生券が配布されていたわけですね。これを、ファイルを一元化して、その一元化されたファイルから予約なり販売なりでとっていくというネットワークの仕組みが絶対必要である。これが松井さんが指摘した問題点と創ったソリューションの方向性なんですよ。そこのところは根幹としてゆるがないで、そのまま実現した。二番目に、お金をやり取りする仕組み。一元化ファイルとお金のやり取りと、チケットのやり取り、物流ですね、それと平等性というかな、チケットを手に入れる平等性、それとプロモーターにとっての事業の安定性というか、安心感を与えるということ。これらの概念・コンセプトを構築するという点において、松井さんの頭脳と、世の中を見る目の優しさといったのもが遺憾なく発揮されたという感じです。


(3) PTS事業計画作成チームの編成

 チケットぴあのコンセプトがはっきりして、これはやれるという判断をしてから実際に開発を具体化していく、ステップはどんなものだったのでしょうか。

今井:最初はPTSと呼んでたんですよ。ぴあチケットシステム。PTS事業計画作成チームみたいなものができたんです。それで、松井さんの下に、私と川口純さんと八幡宏之君、相原裕美さん、田中丸慎二君、それから浅見順子、西村直子、石井敬子、浜松多希子など頭脳明晰、感性が鋭い、業界経験があるなど多士済々が集められた。この人たちが、最初の事業開発案を作るチームですね。いや最初はもっと少なかったかな、八幡君、相原さん、田中丸君、当時アシスタントだった浜松さん、このぐらいだったかな。川口君も途中から入ったから、松井さんを入れて5〜6人、こんなテーブルでいつも会議をしてたんです。

 そのぐらいが適当そうですね。

今井:6人ぐらいで、マーケティングチームとシステムチームに分かれて、東京で行われている公演をぴあの情報から全部書き出してチケットのマーケットサイズを調べるとか、チケット流通の仕組みが今どうなっているか、その問題点、それから解決策、事業性、マージンの実態と、このシステムだったらいくらマージンをもらえるかとか、そういう一番最初の事業計画書を作ったんです。それで役員会に松井さんが上程するんだけど、当時のぴあには他のテーマがいろいろめじろ押しで、審議が次に回されたり、つまり雑誌の次のを出そうかという話もあって、「カレンダー」って言ったかな、それでチケットはまだ先だとか中味がまだ不十分であると社長から突き返されて、「もっと深堀りをしなさい」ということで、それをやるのに半年か一年ぐらいかかったんですよ。ま、当然と言えば当然ですね。

 この事業計画チームというのはいつ頃ですか。

今井:1981年の6月ぐらに発足して、10月ぐらいまでやってたんです。

 それが第一ステップ。

今井:はい。みんなの協力でおおもとになるようなものを作り、最後は松井さんと私とでまとめた感じです。

 そのチームができる前ですか。

今井:前です。チームを作る必要があるということを社長に決済いただくための、最初の方向性を決めるようなものがあったと記憶してるんだけど。それが1981年の4月から5月ぐらいに作って、じゃあやろうということになってチームが集められて、1981年の6月から10月ぐらいまで、事業計画書を2〜3回書き直した覚えがありますね。本格的にスタートしてから4ヶ月、3回ぐらい書き直したかな。それが9月ぐらいにOKが出て、10月にさらにスタッフが補充されたんですね。マーケティングの石垣朗君とかシステムの大嶋敏晴君とか、プロモーターにいた歌代大志郎君、東大出のぴあ編集部員浅見順子さん、旧東京都立大の理学部数学科で微分幾何学を専攻していた才媛石井敬子さん、のちに松下政経塾出身の第一号代議士(佐賀県)の妻となる西村直子さん。ヤマハRZ−3半、2ストの高速気違いバイクでカットバシていた浜松多希子さんなどなど、みな個性あるすごい若者。こういう人たちが、さらに実施計画書作り、実行計画、ということになって集められる。みんな中途とか新入社員や入社2、3年目で編成された。それで特に石垣君というのが広告代理店上がりの人で、マーケティングのほうの仕入れ営業を主にやってましたね。歌代大志郎君もそういうイベンターみたいなところにいたので、業界には明るい。それから、石井敬子さんはシステムの方に入って、田中丸君といっしょに私も含めシステム設計を大島君を頭にやっていた。浅見順子さんは才色兼備の女性だったけど、会員制の仕組み、今で言うぴあ会員サービスの根幹開発を主に担当した。石井敬子さんも昔相鉄ジョイナスのプレイガイドにいた子で、チケットの流通販売に詳しい。そのチームが販売系とか電話予約センターの設計といったことを分担してやり始めた。だから、このチームはチケット経験者、関係者を集中的に集めた専門家集団という感じでした。
 1年くらいのちに実行部隊のメンバーとして中途参加された人には、チケット仕入れ営業の海藤常彦さん、チケット販売の斉藤斎さん、佐口さんらがいます。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp