*
松井隼さんの思索社会システム設計
■ 数学
■ 哲学
■ 社会システム設計
『文化産業論』

『21世紀への高等教育』

『チケットぴあの創業過程』
*(20) 松井さんの果たした役割
■ 学生時代の資料

「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」

聞き手 山本 眞人
06年10月29日

(20) 松井さんの果たした役割

 今のお話で、システムの構想から具体化までという全体の流れをお話していただいたことになりますよね。そういう全体の松井さんの役割といいますか、松井さんならではの役割というのは何であったのかというのを振り返るとどうなんでしょうかね。

今井:松井さんの功績でやっぱり一番大きいのは、最初は社長の思い、チケット流通をぴあの第二の柱にしようという思いを引き出したということと、それをちゃんとまとめた。それでいくつかの柱というかビジョンを作ったというのが、一番の松井さんらしい働きじゃないかと思うんです。それぞれひと項目ずつ壮大なテーマで、それぞれを部下に与えて、それを総合的に見ていった。あとは、トップ営業というか、大河内さんだとか浅利慶太さんだとかセゾンとの対応とか、そういう所で松井さんの仕事があったんだと思うんですよね。と同時に内部のチームを鼓舞する役目で、もっぱら神保町の安バーに行って飲む。だいたい10時ぐらいに仕事が終わると11時12時まで飲んでタクシーで帰るみたいな生活が続いていて、ほんとうに2、3日プレゼンのためにうちに帰れないなんていう時もあって、大企業にプレゼンに行くのに二人で臭いからどこかで風呂に入ってワイシャツを洗わなくちゃと、どこも満員で御茶ノ水の山の上ホテルに行ったらスイートしか空いてなくて、仕方無しに男二人でスイートに泊まったりした。あの国会議事堂みたいになっている山の上ホテルのまん中の一番上のね。それで確か、東宝の大河内さんに会いに行ったような記憶があります。そういう、結構現場指揮官みたいなこともやりながら、社長との意見調整とか役員をまとめるというか、システム的なことは他の役員は全部松井さんに任せていたので、調整するというよりも松井さんがこうだと言ったことはだいたいそういうふうに話が通る。それとやっぱり最後は社長との意見調整にだいぶお疲れになっていたようです。


(21) 思想家と行動家と実務家

 だいぶ喧嘩してということがあったみたいですね。どういう衝突だったんですか。

今井:チケットぴあの時というのは、あんまり衝突めいたことは私達には話さなかったですね。まあ、大河内さんが応援してくれたのに劇団四季と組むということに対しては、断わりに行くのにだいぶ心を悩ましたみたいですけどね。劇団四季と組んだことでチケットぴあは結果的にはよかったということですね。むしろチケットぴあがスタートした後ですよね。結局、松井さんが社長との意見調整が辛くなって降りたみたいなことがあったんです。その流れは、松井さんがスポイルされて松井さん以外の人が責任者になったということで、私らのような松井グループというか古い事情を知る人間は煙たがられて、やはり同じように虐げられていくわけです。私なんかチケットVAN出向とかね、ぜんぜん本社主流派以外になっていくわけですね。私だけでなく、それぞれ理由は様々なものがあったと感じていますが、結果的に開発当初の松井組というのは散り散りになってしまった。

 それは、開発、動き出すところまでは松井チームが推進し、それを実際に広げて行くというか、営業的にチケットぴあをどういうふうに展開していくかというところでの対立と言うか、考え方の違いがあったんですか。

今井:と言うか、松井さんは実際疲れちゃったんでしょうね、社長との調整とか、そういう運用を毎日続けていくということが。私もそういう性格だから。松井さんに私が話したことがあるんだけど、私の持論でもあって、世の中が革命的に動く時というのは、3つのタイプの人間が現れると思う。まず最初に思想家が現れるんですよ。それで今の世の中間違っている、こうあるべきだと新しいビジョンを立てるわけですよ。二番目に行動家が現れて、その教えを行動に移すんですよね。それでチャンチャンバラバラをやって世の中をガタガタにして、で、この一番目と二番目は畳の上では死ねないんですよ。まあ、吉田松陰が牢屋にぶち込まれ、その後志あるものたちがバッサバッサと切られていくように。

 安定期に入る所でパージされる。

今井:ま そういうことでしょうか・・三番目にパクッて食べる奴がいる。それは実務家というか。「織田がこね、羽柴が搗きし天下餅、座りしままに食うは徳川」という例えにもあるように、やっぱり思想家から始まって、行動家がある程度のところまで作ったものを、実務家あるいは高度の技術屋、大村益次郎みたいな、そういう人たちが集大成させて、一番おいしい所を食べる。でも、その中味をよく見ると、一番最初の思想家というのは魅力がある人間で、二番目の行動家たちは死んじゃうんだけどかっこいいんですよね。異性にもてるんですよ。

 3つのタイプがいて、それで松井さんは思想家なんですね。今井さんは行動家。

今井:松井さんと私は多分そういうことになるんでしょうね。石垣君は行動派で途中でやめちゃったし。そうしてみるとそういうふうに分類されますね。
 しかし、チケットぴあの現状は事業としてかなり厳しくなっているようですね。

 どこで失敗しているんでしょうね。

今井:松井さんはぴあを去ってしまいましたが、まず、残った人たちが悪いということではないんだけれども、商品30年説に従って言えば、雑誌ぴあはもう30年で、金の成る木からずり落ちていて、競合がどんどん出てくるは、出版自体が落ち目になっているし、情報誌という構造自体が世の中に必要とされなくなってきているかもしれない。それはインターネットの浸透とかフリーペーパーの普及などが原因ですよね。それから、チケットぴあは依然として社会的ニーズはあるものの、収益構造になっていないようです。10パーセントと2パーセント、チケット代10円でズーッと変わらずやってきていて、収入原資が変わらないわけです。それで力関係でマージン叩かれたりしてカスカスの状態だったにもかかわらず、設備投資がそんなに早く置き換わらなきゃいけないという所までは読んでいなかったと思う。

 システムを維持するのが大変ということですか。

今井:はいそうです。つまり、我々が作ったACOSシステムがスタート後しばらくして、ユニシスが入って来て、サンのサーバーを50台並列に並べて、情報化月間の通産大臣賞か何かもらっている分散型のシステムに切り替えたんです、それに置き換えてスタートしたとたんに、このシステムはもう古いと言われて、インターネット対応じゃないといけないということでまた変えていった。結構な設備投資額です。さらにパソコン端末がどんどん普及していって、機材を一新した。携帯対応をしなきゃいけないとか、電子チケットぴあもそろそろ開始とか。私は最後はEC推進室長で、そういう時代になるということで研究開発活動をやっていたんですけど、端末の普及が個人まで行き渡るにはまだ時間が早いということで、私がいる頃にはできなかった。だけど3年前ぐらいから電子チケットぴあになって、そういう設備投資をせざるを得なくなった。今日のように携帯電話が小型のモバイルコンピュータのように進化してほとんどの若者が持っている時代が急速に来ることは、はっきり予測できていなかったのかもしれない。お財布携帯、チケット携帯の実験は5〜6年前からやってはいましたが。
 収入の方の画期的な仕組みの改革がないまま、システム投資をどんどんせざるをえない状況で20年やってきているので、たぶん収益構造にはまだなっていないと思う。ということで、10年ぐらい前に第三の金の成る木を作れなかったことがぴあの今のアキレス腱にならねばよいがと感じていますが、その心配は多分杞憂でしょう。
 松井さんの生まれ変わりのような日本の頭脳と思しき救世主が、人が迷った時に出口はあちらですと明確に言えるカリスマがきっと現れることでしょう。

   
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp