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『チケットぴあの創業過程』
*(6) オンライン・ネットワークとNTTの協力
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「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」

聞き手 山本 眞人
06年10月29日

(6) オンライン・ネットワークとNTTの協力

今井:松井さんが苦労したのが、まずシステム道具の選び方。システムに関しては、NECがオンラインの端末機器を出し始めた頃で、まだパソコンは安定性に欠けビジネスに使うには信用度がなかった。パソコンはNECが98シリーズの最初の物を出し始めた頃で、プリンターなどもセットにすると当時70万円位もした。機械も壊れやすかったので、メンテナンスサービスで現場に行って直してくれるというフィールドサービス付きのオフコンが機種としていいだろうということで、NECのN5200という、最初のオフコンのオンライン対応機種を選んだんです。もう一つ、スーパーのレジの脇に置くから小さいのがいいだろうということで、テラーズマシンN6195という、NECが銀行の窓口の下に入れるような銀行員向けの特種な端末を開発していて、それをオンラインに改造して使う。ホストコンピュータはACOS(エイコス)350というのでやろうということになって、NECが全面的に協力してくれたんです。ソフトもNECが全面的に協力してくれて、営業の笹尾さん、システムの前田さんが力を発揮し、ソフト開発チームが同居するようになりました。杉本さんがチームリーダー、後ぴあの社員になってしまう大草君などが頑張ってくれました。
 そのうちネットワークが大事だということになって、電電公社に行くわけです。電々公社のデータ通信本部、今で言うNTTデータの前身の本部長に、これも出会いなんだけど、長谷川寿彦さんという人がいたんですよ。ある事件でつかまってしまったあの長谷川さん。その方が、仕事上は非常に先見の明がある方で、アメリカにデータ通信事業の勉強に行った時に、やっぱり10いくつかのテーマを持って帰って来た。アメリカで成功していて日本にまだないもの、日本に既にあるが今後長大化するデータ通信事業、例えばみどりの窓口、航空券の予約、銀行オンライン、消費者金融などで、そのなかの一つにチケット流通というテーマがあったらしいのです。他のものについてはだいたいやる事業者が決まっていたのに、興業のチケット流通だけは、やるという事業者が現れなかった。それでぴあがやりたいんですけどと相談に行ったら、「よく来た、よく来た。何でも協力するよ」と言って、結局電々公社デ本が総力を挙げて応援してくれたんですよ。それで、ACOS350が電々調達規格品じゃなかったのを、急いで調達品にしてくれた。昔、電々資材部というのがあって、そこが機械のコストをあげる張本人で、こういう規格じゃなきゃダメとメーカーに言うと、それを規格どおり作るためにものすごくコストが上がる。電々仕様にしないと電電公社に入らなかった。それをさらにACOS450にしたところまた急遽通してくれた。それを純正調達品で深川電話局のデータ通信棟の中に入れてくれたんです。余談ですが、コンピュータって手作りなのですね。芝、田町の、今、NECの本社が建っている所は、昔、3階建ての石造りの工場だったんですが、発注したコンピュータの製造途中の或る日見学したら、そこで工員さんがハンダ付けしたりしてコツコツ手で作っている。それで上の看板を見たらPTS様って書いてある、ぴあチケットシステム様ね。その隣にSEJ様って書いてある。そこではセブンイレブンの基幹システムのハードを作っていた。隣どうしで。今にしてみるとすごい光景ですよね。日本の流通の代表的なシステムの赤ちゃんが製造されている現場を目撃することが出来ました。そのPTS様のマシンが出来上がり深川電話局に入った。入ったところを見たら、こっちがチケットぴあ様、隣の部屋には日本移動体通信様と書いてある。今で言うドコモ。そのふたつが並んでヨタヨタと運用を始めた。(ドコモさん失礼)そういう時代でした。それで、深川のデータ通信棟に入る頃になって、電々公社がNTTMになり、デ本がNTTデータMになったんです。それで結局ソフト開発もNTTデータが請け負うことになって、NECからひっぺがすように、NTTデータがソフト開発の元請けになった。この辺も松井さんが大変苦慮された選択だったと思います。


(7) Gジャン姿への変身

 NECが途中までかんで、NTTデータに移ったんですね。

今井:そうです。NTTに渡さざるを得ない状況になったようです。でも、NECとの出会いとというのもすごい縁があるんです。矢内さんがアメリカから帰ってくる時に、隣に座ったビジネスクラスの初老の紳士に、アメリカではいろいろコンピュータの世界を見て来ましたと一渡りコンピュータの話をした後に、名刺交換をしたら、なんと小池さんというNECの常務さんだったので赤面したと。それで、矢内さんは話がある程度固まった時点で、それだったら小池さんの所に会いに行こうということで、NECの本社を訪ねその人が出て来て、「本当に人の出合いって不思議ですね」という話になったそうです。その時松井さんがついて行った。で、関本さんという社長さんも出てこられて、その時、松井さんはGジャンを着ていた。松井さんはある時から服装をバッと替えたんです。それまではビデオリサーチ風の、普通の背広のズボンにワイシャツだったんだけど、或る日から突然GパンにGジャンを着るようになった。

 ぴあスタイルになった。

今井:はい。で、その格好でNEC本社に行ったらしい。そしたら社長がとは言わなかったけれどNEC社内ではイヤーな顔して見られたと、その夜に飲んだ時にしみじみと語っていました。日本の産業界の上部というのは、まだまだ若者文化とかベンチャー的なことに関しては、受け入れる素地が出来てないねえと。それが今から30年近く前の話です。

 それは、NECといっしょにやろうということになる時期の話ですね。関本さんなんかとのやりとりは。

今井:はいそうです。

服装に関しては八幡君がけっこうそういう業界人でいつもセンスのいいラフな格好をしていて、サラリーマン姿の松井さんを見ていつも「松井さん、それはダサイよ」と言ってたんです。

 うちのスタイルにしなさいと。

今井:そうそう。相原裕美さんとかも「うふふ、松井さん、まついさん・・・」そう言うわけ。それで松井さんは自分自身がそういうベンチャー的な世界にいるのに、服装が相応しくないと感じたらしくて、ある時神保町の街を歩いていて「これにしよう」とGジャンを買って、本当に千円か2千円だったかな、当時。それを買って、どこでもそれで出入りし始めた。でもNECの冷たい視線に懲りたのか、よっぽどの時は背広を着てたこともありましたが、松井さんの服装にまつわるそういうようないろんなエピソードもありましたね。役所に行くためにダブルのスーツを着たら、あまり久しぶりだったので、ネクタイを忘れてしまったらしい。女性の係員がニヤニヤしているので、なんだろうとぴあに帰ってきたら、「松井さんかっこいい」とぴあの女性は言う。今でこそ夏のノーネクタイは政府が奨励してますが、当時はまともな?人間から見ると変な格好だったらしい。感性が進んでいるぴあの若者が見るとかっこいい。この違いが文化の違い。新しいものはやはり、新しい感性の中から生まれるのでしょうね。だから松井さんは自分をそういう環境に適合させようと、あえてGパンGジャンに変えたのだと思います。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp