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松井隼さんの思索社会システム設計
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『21世紀への高等教育』

『チケットぴあの創業過程』
*(14) ぴあカード
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「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」

聞き手 山本 眞人
06年10月29日

(14) ぴあカード

今井:一番最後に残ったお金の仕組みは、会員制の仕組みを作ることによって、口座から自動引き落とし。ぴあ会員カードは、イコール、クレジットカードなんですよ。それでそのクレジット業務を、引き落としMTを作って、都市銀行が当時14行あったんですけど、全部のコンピュータセンターにバイク便を走らせてやりとりしていた。クレジット会社を自分でやっていたみたいなものなんですよ。それも自分でやっちゃおうと。委託すると手数料を取られるもんだから、これは松井さんの反骨精神で自分でやっちゃおうという話になった。当時、GCカードとかいうのが有料で一番最初に出たのかな。クレジットカードは当時タダだったんです。年会費がなかった。GCカードが学生相手だったかいろいろあったか新機軸で、こんなの出た、じゃあやっちゃおうということで、ぴあカードは有料のクレジットカードだったんです、最初から。有料というのでは日本で二番目だったかな。でも、いろんな変遷の中で日本信販が相当低い手数料でやるからやらせてくれと言ったということで全部業務委託したので、引き落としMTを持って銀行のコンピュータセンターにバイク便を走らせるという業務はなくなった。一応まだチケットの決済システムとしてはぴあカード会員制は生きていて、非常に有効です。郵送のお金のやりとりについては、各銀行、第一勧銀とどこかが協力してくれると言ったので、チケットぴあ専用振り込み用紙という、名前の前に予約番号を入れるという専用振り込み用紙を作って銀行の窓口に置いてもらったんです。今でこそ「名前の前に何か番号入れますか」とかATMで聞いてくるけど、当時は名前の前に何か入れるというのはちょっと反則的だった。それを認めてくれて、専用の振り込み用紙まで置いてくれた。当時第一勧銀は非常によくやってくれましたね。福岡に行った時は福岡シティバンクとか、名古屋に行った時は東海銀行とか、大阪に行った時は三和銀行とか、それぞれがそういう専用振り込み用紙を置いてくれた。当時社員が80人くらいしかいないぴあのような名もない小さな会社に対しありがたいことでした。振り込みをして確認したらチケットを郵送する、それからクレジットで郵送する。それから予約番号で1週間以内にぴあスポットに取りに行き、その場でお金を払う。各ぴあスポットとは、販売手数料と相殺で代金の決済をする。そういう仕組みをどんどん作って行った。


(15) 入場税検印問題の解決

今井:一番最後に残ったのは、入場税の検印の問題。これが要するにクリティカルパスで、これがクリアされないと、すべてこの仕組みは動かない。それで、実は、たまたま私の親友の弟というのが、大蔵省の政務次官をやった政治家の奥様の妹と結婚していたんです。その某政治家がまだ若い頃、大蔵省をやめて政治家に出る前、埼玉県の某市に学習塾をやって潜伏していた。弟はその学習塾の講師を手伝っていて非常に近しい仲で、その人を通じてその代議士の秘書に会わせてもらって、その紹介で大蔵省の国税局の関税部入場税係の人を訪ねて行ったわけです。国税局の人は代議士まで手を回さなくてもいいのにとか言っていたけど、こちらも必死で、それがすごく効いたのかとりあえず話を聞いてくれた。
 しかし最初は「要するに、六法全書に書いてある入場税法というのがあって、ここに書いてある通りだから、まず無理ですよと」というつれない話だった。法律で決まっているんだから無理だと。その法律というのは、明治だか何か、日清日露戦争の戦費を稼ぐために、歌舞伎とかで遊んでいる人間から税金で取り立てて戦費をまかなおうと、そのために作った法律で、全然時代にそぐわないんですね趣旨も、オペレーションも。しかも、入場税に関してはものすごく細かい規定が六法全書に書いてある。つまり、官給券と特別券がある。官給券というのは今でもそうかな。映画館に行くと「ピッ」と緑色の半券を破くじゃないですか、1300円とか1500円とか書いてあるあれです。要するに税務署から支給されて何番という通し番号が打ってあって、税務署にもぎった半券を持って何人入りましたで清算する。その官給券が本来の法律上の入場券なんですよ。ところがそれだとあまりにも味気ないし、前売りする時に何の公演だかわからないということで、私製の物を自分で印刷するようになったんです。それを法律では特別入場券という。その特別入場券について細かい規定があって、まず紙でなくてはいけない、ミシン目があって半券を切り取れるようになっていなければいけない、何月何日どこで何という公演をいくらでという指定要件が書いてないといけない、裏には入場税検印という割り印をしなければいけない、それを会場所轄の税務署に持って行って数を確認しなければいけない、予め入場税の10パーセントに当たる分を予納しなければいけない、後で販売されなかった分やもぎらなかったチケットを持って行って清算して予納した税金を返してもらうという、気の遠くなるような細かい規定が書いてある。その中には、特別入場券は、持って来たお客さんは入場してよいという識別をするものであって、お客様の目の前で半券をもぎらなければいけない、その半券を渡さなければいけない。で、予め検印を押さなければいけない、しかも会場所轄の税務署に持って行ってということだから、これはオンラインのコンピュータシステムではどうしたらいいんだろうと松井さんと一緒に大いに悩みました。それで条例をよく調べたら、「入場券検印省略につき麹町税務署承認済み」と書けば良いという条例があったんです。

 それはどこの条例ですか。

今井:国税局の条例です。国税局が法律の施行細則として出した指導要領みたいな形のものです。ですから正確には条例ではなく施行規則・細則です。または行政指導としての通達です。入場税法をもうちょっと簡略化するためにそれぞれの税務署宛に出した通達がある。それで何とかしてくれないかと、「入場税検印省略につき○○税務署承認済み」というフォーマットを作るから、その○○のところに会場を所轄する税務署名を必ず入れるから、しかも、裏面ではなくて表面に。

 印刷しちゃうということ。

今井:そうです。プリントアウトするごとに最初から印刷するからそれで勘弁してくれと、日参するように担当者の所に行ってはいろんな話をしているうちに、最後にはお客の立場、業界の立場も真剣に考えてくれるようになって、世の中が便利になることに反対することもないというわけで「じゃあ今井さん、これでいこうよ」ということになった。結局最後は、国税局名で全国の税務署に、「コンピュータチケットについては検印省略承認済ということでよろしい」という趣旨の通達を出してくれたんです。それでチケットぴあが成立したのです。この喜びの瞬間はチケットぴあの真似をした他のチケット屋にはわからないパイオニアの楽しみです。
 ところが、この話には後日談があります。全国の税務署名をくまなく調べた所、だいたい4桁でいける。麹町税務署2桁でしょ、だいたい4桁あればいいだろうと。関東地方はそれでいけたんですよ。ところが名古屋に名古屋中村税務署があったんですよ。「名古屋中村、5桁だよ、でも名古屋はいらないよ、当分」と、それで走った。そしたら3年後か5年後ぐらいかな、劇団四季の「キャッツ」が名古屋公演をやることになって、税務署から呼び出しがきた。「ついに来たか」と。それで結局名古屋中村税務署まで行きました。名・中村税務署じゃだめですかとかいろいろ交渉したんだけどだめだと言う。結局システムを直しました。そういうことで、いろんな、松井さんがこうあるべきだというビジョンを実現する役目を私達が担って、最大の入場税の検印省略もそれで片づいた。後は売り出しも劇団四季でうまくいって、一般の売り出しも翌1984年4月で切り替えてうまくいって、徐々に委託チケットが増えていって今日のチケットぴあの元ができたということです。
 その後システムが完成・安定し、仕組みが業界や世の中に定着するまでにはまだまだ筆舌にかなわない苦労があったと思いますが、松井さんと二人三脚で走ったチケットぴあ開発秘話的な物語はこんな感じです。物語と思って聞いてください。
 その後、入場税については消費税が導入されて法律そのものがなくなってしまい、胡散霧消しました。
 当時業界を挙げて入場税に反対運動をしたりしたこともありました。国税局に通ったあの苦労はなんだったのだろうと法律一文の持つ重さというか、民間人の私から言わせてもらえばばかばかしさが後味として残っています。松井さんも草葉の陰で苦笑いをしていることでしょう。しかし世の中で起ることはすべて意味があるという話もあることだし、ぴあで松井さんが果たしたお役も天が与えたシナリオどおりだったのでしょう。

    
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp